幸せになるために

「だから俺はもう二度と、母親には本気で描いた絵は見せないようにしよう、また誰かが俺の絵について余計な話を振ったりしないように、慎重に行動しようって、心に決めました」


その予感は当たっていた。


「そして、『絵なんか上手くたって何の役にも立たない』と、憎々しげに言い放ったあの人を見返す為に、絶対に、それを生業にしてやろうと誓ったんです」


吾妻さんは、自分の両の目から溢れたそれが、頬を伝い、テーブルの上にポトリと落ちたタイミングで、笑顔を作り、囁いた。


「俺って、すっげー歪んでますよね…」


衝動的というのは、まさにこういう事を言うのだと、初めて実感した。

オレは椅子を倒す勢いで立ち上がると、吾妻さんの傍まで大股で移動し、その頭を両手で引き寄せた。


「比企さん…?」

「歪んでなんか、いないよ」


オレの腕に捕らえられ、戸惑った声を発する吾妻さんに、優しく語りかける。


「お金が稼げるから、それがお母さんへの復讐になるから、絵描きになったんじゃない。絵を描き続けたいから、小さかった吾妻さんはどうすれば良いのか、一生懸命考えたんだよ」


何の後ろ楯もなく、自分一人の力で。


「吾妻さんは自分の才能を守っただけだよ。お母さんにその芽を摘まれないように、大きく花開く瞬間を決して邪魔されたりしないように。「そんなものには興味がない」ってふりをしながら、誰にも内緒でひっそりこっそり、技術を磨いて来たんでしょ?」


それはどんなに大変な事だっただろう。


「吾妻さんは自分の夢に向かって、真っ直ぐに進んで来たじゃないか。だからこれっぽっちも、歪んでなんかいないよ」

「……っ」


吾妻さんは一瞬呼吸を大きく乱し、それに連動して肩も揺らした。

だけどそれ以上の動きはなかった。

オレの胸に顔を埋めて、声を殺して、静かに男泣きする吾妻さんの背中を、右手でゆっくりと上下にさすりながら考える。

オレの母さんはもちろん父さんも、オレ達兄弟を決してえこひいきしたりなんかしなかった。

同じように甘えさせてくれて、そして同じように叱ってくれた。

喧嘩した時も「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」とか「弟なんだからお兄ちゃんの言うことを聞きなさい」などという言い方をされた事は、覚えている限りでは一度たりともない。