幸せになるために

「優しいとまではいきませんけど、二人きり、もしくは兄も交えて三人でいる時よりはだいぶマシでした。『ちょっと口うるさいお母さん』という感じで留めていたというか…。父親は典型的な企業戦士で、家の中の事は母親に任せきりだったので、多少俺がきつめに叱られている場面を見ても『まぁ、母親ならこれくらいのお小言は言うものだろう』という考えだったようです」

「お兄さんは?かばってくれなかったの?」

「そうですね…。兄は、何というか、淡白な人で…。母親に便乗して俺をいじめたりする事はなかったけれど、かといって積極的にかばってくれる事もしなかったですね。母親のヒステリーが始まると、自分はこっそり部屋に避難してしまったりして」

「そんな…」

「でもまぁ、それは仕方がないですよ。5才年上とはいえ、俺が小さい頃は兄だってまだまだ子どもだったんですから。あんな母親、誰だって扱いに困りますもん。むしろ、日常的に弟がパワハラを受けている姿を見せつけられて、いつ自分にもそれが降りかかって来るか分からないという恐怖に怯え、尋常じゃない精神的負担を強いられていたハズです。兄もある意味、虐待を受けていたようなものですよ」


さらりと吾妻さんが発したその言葉に、オレの鼓動は急激にはねあがった。


……そうだよ。

まさしくこれは、虐待じゃないか。

吾妻さんも、聖くんと同じように、大人のあまりにも身勝手過ぎる都合、思考に翻弄され、何の悩みも重責もなく幸せに過ごせるハズの貴重な幼少期を奪われてしまった、悲しき被害者だったのだ。


「翌日、幼稚園に着くやいなや母親は、俺に何か言われる前に先手を打って『昨日描いた絵、りきがジュースをこぼして台無しにしてしまったので別の絵を描かせました』と先生に現物を見せながら報告したんです」


オレがその重い事実を受け止め、胸を貫くような衝撃に目を閉じて耐えている間に、吾妻さんは話を続けた。


「そして『昨日の絵より勢いがなくなっちゃいましたね』と残念そうに発せられた先生のその感想に、母親は殊勝に頷きながらも、その場を去り際、とても満足そうにほくそ笑んだのを、俺は見逃しませんでした」


その時、オレはある予感を持ちながら、瞼を開き、吾妻さんを見つめた。