幸せになるために

吾妻さんは深いため息を吐いてから続けた。


「やっぱり、幼稚園に置いたままにしておけば良かった。手を洗ってリビングに戻って来たら、母親がテーブルの上を無表情で拭いていて、その上に乗っていた動物園の絵が、ジュースでびしょ濡れになっていたんです」

「えっ…」


『ああ。それ、汚れちゃったから捨てなさい』


「呆然と立ち尽くす俺に、母親は冷たく言い放ちました」


『そんな邪魔な所に置いておくからコップを倒しちゃったじゃないの』


「思わず泣き出してしまった俺に、声を荒げてさらに母親は言い募りました」


『自分がだらしがないのが悪いんでしょ!ほら、お兄ちゃんがもうすぐ帰って来てここでおやつを食べるんだから!そんなの早く捨てて来なさい!』


聖くんの話を聞いていた時と同様に、オレの勝手なイメージによって作り出された吾妻さんのお母さんが、ヒステリックに喚き散らす姿が脳内スクリーンに浮かび上がる。


「それで結局その絵は破棄して、新しく描き直しました。クレヨンと、念のためスケッチブックも持ち帰っていましたからね。ただ、気分がかなり落ち込んでしまっていて、とてもじゃないけど最初に描いた絵と同等の仕上がりにはなりませんでした。仕事から帰宅した、何も事情を知らない父親は『上手に描けてるなー』なんて、能天気に誉めてくれましたけどね」

「まさか、その絵まで汚されたりなんてことは…」

「ああ、さすがにそれは無かったです。発作的にジュースをかけてしまったけれど、すぐに、提出する絵がないのはマズイという事に気付いたんでしょう。俺が絵を完成させられなかったら……ようするに、幼稚園から出された宿題をすっぽかしたりしたら、自分の母親としての管理能力が問われると思ったんじゃないですか?むしろ、夕飯時になってもまだせっせと色塗りをしている俺に『早く仕上げちゃいなさい』と発破をかけて来ましたから」

「何て勝手な…」


誰のせいでそんな事態に陥ったと思っているのか。


「それに、父親が家にいる時に、さすがにそんなあからさまな嫌がらせはできなかったでしょうからね」

「……お父さんの前では優しかったんだ」