ハルが少し屈んで、紫織の耳元にそっと顔を寄せた。
「春都(ハルト)」
凛と響いたハルの声に、彼の心を知る。
うつくしい名前だ。それは、優しくあたたかい彼にとてもよく似合っている。
「昔、使っていた名前です。僕にはもう必要ないから。それに、いつまでも持っているとシノブが余計な心配ばかりするので」
返事をする代わりに、ぎゅっとハルの身体を抱きしめた。
寂しさが込み上げて震えてしまう紫織の背を、ハルがそっと撫でてくれる。
「さようなら、紫織」
「さようなら、ありがとう。
――春都」
微笑むハルの姿を瞼の裏に焼き付けて、ゆっくりと屋敷を後にする。一本道だ。相変わらず濃い霧がたちこめているけれど、しっかりと前を見て足をすすめれば迷うはずもない。
携帯電話は未だに振動を続けている。

