小さくため息をついたその時、遠くで何か、ざわめきが聞こえてきた。

 麻子は少し立ち止まり、ふと振り返る。

 街を行く、幸せそうな人々が、いない。


「………?」


 いや、人々はいるんだけれど。

 そのざわめきが、悲鳴だと麻子は気が付いた。

 立ち止まっている麻子を追い越して走り去る人々は、何かから逃げているのだと。

 何事が起こったのか分からずに、麻子はじっとその場で、人々が逃げてくるその先の光景を凝視する。

 逃げ惑う人々とは、明らかに様相が違う男が1人。


「バカ麻子! 逃げろ!!」

「………え?」


 正幸の声が聞こえた。

 それと同時に、近付いてきた男に、いきなり首に腕を回された。

 優しく、なんてもんじゃない、暴力的に、乱暴に。

 苦しくて、思わず目を閉じる。

 何が起こっているのか理解しないうちに、麻子の頬に冷たいものが当たった。

 それがナイフだと、見なくてもすぐに分かった。

 と同時に、自分が今置かれた状況を理解する。

 誰も居なくなったショッピングモールに、ずるずると引きずり込まれる麻子。

 ナイフを持った男に、捕まったのだ。


「麻子!!」


 周りに誰もいなくなったショッピングモールの中でまた、正幸の声がした。

 首が苦しくて、麻子はやっとの事で片目を少し開ける。

 正幸が、少し離れた場所にいた。


「なんで…ここにいるの…」


 その声はかすれて、正幸には届かない。

 自分を拘束している男は酒臭く異様な興奮状態で、荒い息づかいが頬に当たって、気持ち悪かった。


「麻子を離せ!!」


 そんな正幸の声も、この男には聞こえてはいないようだった。

 ナイフを持った男の手は緩まない。

 尋常じゃないこの男に、正幸もこれ以上麻子には近づけないでいる。

 これ以上近づいたら、麻子が何をされるか分からない。


「まさゆ…き」


 呼び掛けようとするが、声にならなかった。

 ショッピングモールの中にある玩具売り場の前に麻子を抱えたまま座り込み、小さな声で何かをブツブツ言っている男。

 どうして、こんなことになったのだろう。

 どうも、麻子には今の現状が夢の中の出来事のようで、実感が湧かない。

 その分、恐怖心も少なくて済んだが。

 ちらりと後ろを向くと、男は何処か焦点の合わない視線を中空に向けていた。


「もう…終わりだ…どうなってもいいんだ…」


 こんな言葉を繰り返しながら。


「何が終わりなのよ…」


 思わず呟く。

 すると、ナイフを突きつけられて。


「もう会えないんだよ…分かるか?」


 男は、寂しそうに言った。

 麻子は悟る。

 この男“も”、フラれたクチか。

 それにしては、バカな事をするもんだ。