幸い、鈴音のおかげで彼の名前は知っている。
けれど、こんな茶番に付き合う気には到底なれない。
何を言っても、どんな態度を取っても、彼には届いていない気がした。
暖簾に腕押しの状態で、苛立ちばかりが募る。
直観だ。この人とは、合わない。
「ハンカチくらい、あげます。さよなら」
あたしは踵を返し、歩き始めた。
先輩は後を追ってくる。
「待ってよ、杏奈ちゃん」
「下の名前で呼ばないでください」
前を向いて歩きながら、ぴしゃりと言い放った。
いくら冷たい態度を取っても、彼には響かないとわかっていながら。
「じゃあ、伊田ちゃん」
無視をしたけれど、顔をしかめることは止められなかった。
できるだけ早足で歩く。
けれど足の長さの違いか、東郷先輩は苦もなくあたしに並ぶ。