「あ、やば」
「杏奈、どうしたの?」
休み時間の廊下で、一人、みんなの輪から遅れたあたしを、美菜が振り返る。
あたしは立ち止まり、スカートのポケットを手で叩く。
いつもの柔らかな感触が、無い。
「ハンカチ忘れてきちゃったみたい。ごめん、先行ってて」
前の時間は化学室で実験の授業だった。
最後に慌ただしく試験管を洗って手を拭いた後、流し台に置き忘れてしまったのだろう。
美菜に手を振って、小走りで引き返す。
化学室の前に着き、ドアに手をかける。
横にスライドしようとした手は、ガタンという音と共に、その場に留まった。
「鍵かけられちゃったか……」
少し遅かったらしい。
仕方ない、次の休み時間に職員室に行って事情を説明し、鍵を借りよう。
踵を返し、教室へ向かって歩き出した、その時だった。
「伊田杏奈」
甘いテノールが、しんと静まる廊下に響く。
一歩だけ踏み出した足は、そこで止まった。