カノン




「最近レッスンが無い日は遅いけど、来月にはコンクールがあること忘れてないでしょうね?」

ラップのかかった晩御飯をレンジで温め直していると茶碗を洗っていた母親が釘を刺した。


「確かに学生の本分は勉強だけど、レッスンだけの練習じゃ到底ピアニストになんかなれないわよ。大学は音大なんだから一般教科をやる必要ないでしょう?それより技術よ。技術を身に着けないとお話にならないわ」

母は自分の母校である東京の音大に私を入れることを、多分私が生まれた瞬間に思ったんだろう。


物心がついた時には既に、私は母のレッスンを受けつつ、コンクールで優勝もし、音大で音楽を学び、留学もしてピアニストの道に進むことを知っていた。

けど、幼い私が思っていたような将来と現実は少し違っていた。


私は未だにコンクールの優勝経験がない。

母は私と同じ歳までには様々なコンクールで賞を取っていたらしい。

それもあって、思い通りにならない私に苛立ちを覚えるんだろう。


「・・・音大、じゃなきゃダメなのかなぁ・・・」

生まれた時から決まり切っていた将来だった。

私もそれを疑わなかったし、それが正しいと思っていた。

私が今生きていることも、大学に入ることもピアニストになる通過点でしか無い。

ピアニストになる為には何の犠牲も無しには到底無理だ。


わかっているけど、私の周りで輝きながら生きている人達を見ていると、自分が間違っているんじゃないかと思う。


私の人生、ピアニストになるまでは全てが通過点だって言うの?




少しの沈黙。

母親が怒りに震えているのではないか、と思ってちらりと盗み見ると母親は首を傾げていた。

「高校卒業してすぐ留学したいってことかしら?」

見当違いの答えが返ってきて苦笑いした。

「ううん。何でもない。練習、してくるね」


母は私が子供の頃の時のようにずっと、ピアニストになることを夢見ていると信じきっている。


鍵盤の蓋を開け、指をそっと鍵盤に乗せる。

何千回としてきた行為。

目を瞑っていてでも鍵盤の配置がわかる。



頭の中にある楽譜を開き、手首を柔らかく使いながら鍵盤の上を自分の指が躍る。


ピアノ以外では私のことに関心を持たない母。


こうして、私がピアノを弾いている間だけ、存在価値がある。


ピアニストとしての道しか与えられていない私が脱線してしまった時、私のこの家での存在価値は無くなるんだろうか。


家族に見捨てられる恐怖感を拭い去る様に懸命に指を動かしたが、ギターを弾いている時のような高揚感は無く、単なる作業としてしか感じることができなかった。