「あ、ほら、そろそろ時間じゃないかな?馨君と棗君は先にスタジオに入ってるから行かないと、その棗君にどやされるよ」
「やばっ!じゃあね、麻生さん!」
「ごゆっくり」
フロントの真正面の壁に掲げられていた時計を見上げた咲綺ちゃんは慌てて駆け出した。
麻生さんはその姿に右手をひらひらとさせて見送った。
「遅ぇ」
重厚感のある黒い扉を開けると棗君が鋭い目を私達に向け、開口一言。
苛立っているのは猿でもわかりそうだ。
「ごめんごめん。麻生さんと立ち話しちゃった」
「早く準備しろ」
「はいはーい。わかってますよー」
能天気な声を出しながら背負っていたリュックを床の隅に置いた。
既に馨君はドラムの後ろに座り、小さく音を鳴らしていた。棗君もその前でアンプに繋がれたベースを肩から掛けている。
こう見ると、ベースの方がギターより長く大きく見える。
うん、わかった。これがギターとベースの違いか。
「お前もだ」
「あっ、うん、準備する」
「ちゃんとチューニングもしとけよ」
「・・・チューニング?」
「あ?」
首を傾げて繰り返すと棗君は眉根を寄せて睨みつけてきた。
普段何を考えているかわからない無表情のくせに、怒りを表す時だけここぞとばかりに自己主張してくる。
棗君には喜怒哀楽ってものが無くて、怒怒怒怒しかないんじゃないの?
昨日の嬉しそうな棗君の表情も実は私の勘違いだったのかも。
因みに、棗君の表情から読み取れる言葉は「何言ってんだてめぇ、ふざけるなよ、ボケ」が妥当だろう。
「チューニング知らねぇでギター弾いてたのか」
「いや、ギターは教えてもらう時にだけ借りてたからそのチューニングってのはやったことなくて。多分、ギター貸してくれてた高校生が私に貸す前にやってくれてたんだろうけど。チュ、チューニングって調律のことだよね?どうやってやるの・・・かなぁ?」
苦笑いで誤魔化すが、棗君の怒りの表情は消えない。
「そうやってイライラしないの、棗!ふたばは弾いたことあるって言ってもまだいろんなことが初心者なんだから、ちゃんと教えてあげてよ」
「うるせぇ、今やるとこだ!」
母親に叱られる子供のようだ、と緩む口元を必死で隠した。

