なあ、阿佐ヶ谷。意識を失うっていつからだ?」
「そんなことを女子力が高い私に訊いてどうするの。たしかに女という生き物は質問される度に自分が大事にされていると誤解する生き物だけど、それでも高円寺君みたいにセンチメンタルで私をおんぶしたときに胸の感触を確かめるように背中を押しつけてくるスケベな人に教えるには心を開きずらいのも事実よ」
 この女は完全に俺を馬鹿にしている。高円寺は両の拳を握りしめる。感情と理性が互いをせめぎ合う。ここで何か爆発的な言葉を放とうものなら会話を交わすチャンスは訪れないのではないか、と高円寺は考え理性で押さえつけた。
「俺が気になってる点は、君の、いや阿佐ヶ谷の頭が人間が本来もっているであろう質量に到達していなかった点だ」
 高円寺は阿佐ヶ谷の方を見つめることなく夕陽に向い叫ぶように言った。もう、そこに段階だとか手順はなかった。あるのは確信に迫る質問のみ。
「へえ、頭が弱いと思っていた高円寺君が、質量という物理的な言葉を使用するなんて、明日は地球の滅亡かしら、それともホッキョクグマの襲来かしら、何はともあれ、気づいてしまったのね」
「どういうことだよ?」
「そういうことよ」
「だからさ」
「高円寺君との押し問答は面白いわ。でも、気づいてしまったのなら仕方ないわ。秘密を共有する中でもあるのだから」
 阿佐ヶ谷は綺麗な歯並びを覗かせた。その整然とした歯並びは鍵盤のようでありメロディが流れそうなほどに心を落ち着かせ高円寺を魅了した。
「秘密?」
「あら、高円寺君。あなたの特殊能力で女子更衣室に侵入してたじゃない。もうお忘れ?やはり高円寺君ってスケベで陰湿で変態で記憶障害でもあるのね」
「悪い。それは是非、内密にして欲しい」
 高円寺は頭を下げる。より深く、永久とも思える時間頭を下げた。噴水の音が心地よく耳に響く。
「いいわよ。なら私の秘密も暴露するわ。面白いのは既に〝秘密〟という単語が出た時点で秘密ではなくなるの。だって本来の秘密って心の中に秘めとくものだから。でも、人って話してしまうのよね。共有したくなるのよ」
 高円寺は頭を上げ、「共有?」と訊いた。
「一人で抱えるよりは誰かと一緒に解決した方がいいと思って。さらにいえばうだつの上がらない高円寺君なら、もしかしたら解決策を知ってるかなと思って」と阿佐ヶ谷は人差し指でこめかみをリズミカルに叩き、「蚤に取り憑かれているのよ」とドライな口調で言った。
 高円寺は阿佐ヶ谷の均整のとれた顔立ちを凝視し、「わっ!」と声を上げた。たしかにいる。無数の蚤が彼女の頭に蠢いている。目を背けたくなるような光景が繰り広げられている。ホラー映画よりグロテスクで現実より複雑だ。
「私の司る感情中枢は蚤に喰われてるの」
 阿佐ヶ谷は透き通る瞳で高円寺を見つめた。背後の噴水の音が鳴り止んだ。夕焼けは終わりを告げ、気づけば闇が訪れていた。