「お待たせいたしました」
「ありがとう」
ドアを開けてくれた勇人に私は微笑みで答えて
ワゴンをテーブルへと運んだ。
午後にこの部屋を訪れた時は、あんなに緊張していたのがウソのようだ。
電話で少し話しただけなのに、こんなにも気持ちがラクになるなんて。
「わ、眼鏡替えたの?」
「変か?」
「いいえ。そうじゃないの。イメージと違うなと思って」
「眼鏡屋で勧められたんだ。俺のチョイスは真面目過ぎるらしい」
「いいと思う。よく似合ってるわ」
「そうか?軽薄そうじゃないか?」
「そんなことない。おしゃれよ?とても」
他愛のない会話をしながらグラスとシャンパンクーラーをテーブルにセットした私は
一歩下がって勇人に向って軽く一礼をして それでは失礼します、と声をかけた。
「待って」
「はい?」
「一杯、付き合ってくれないか」
グラスを掲げた彼が、それを私へと差し出した。
「すみません。仕事中にお客様のお部屋で飲食する事はできません」
「コレが最後の仕事だったんだろう?」
確かにそうだけれど・・・
「でも」
「再会の乾杯をしたいんだ」
乾杯って・・・
それは私との再会を喜んでくれているということ?
視線の先には小さく頷いて微笑む彼が立っていた。
あの頃のままの優しい微笑。
そんな風に笑って見つめられると私はまた切ない気持ちになってしまう。
だから見ないで欲しいのに、その微笑む眼差しは見ていたいなんて
私はこの人のことになるとどうして矛盾した思いばかりを抱いてしまうのだろう。
私がおずおずと手を伸ばしてグラスを受け取ると
彼がボトルを掴み栓を抜きにかかった。
そういえば、こうして生身の彼を見るのは久しぶりだ。
あの頃に比べて身体つきは少し逞しくなったように見えた。
そして頬から顎にかけてのラインはシャープになってますます知的に見える。
彼の全てから大人の男の匂いを感じずにはいられない。
どうしよう。目が離せない。
緩めた栓はナフキンで抑えられ、ポムとくぐもった音をたてて抜かれた。
注がれたグラスに淡いピンクの細かい気泡が踊る。
見ているだけで何か魔法にでもかかったような不思議な気持ちにさせる。
「藤崎?」
小首をかしげるように私の瞳をのぞきこむ勇人の姿につきんと胸に痛みが走った。
成瀬くん・・・
「再会に」
「はい、再会に」
「そして 嬉しい偶然に」
え? 嬉しいって・・なに? その言葉に胸がまた躍りだした。
「乾杯」
合わせたグラスがキィンと品良く音を立てた。
見詰め合ったままでグラスを傾けるのはなんだかとても艶かしくて
ひと口飲んだところで、私はグラスを下げた。
そんな私をやっぱり見つめたまま、勇人は自分のグラスを一気に煽ると、
今度は私のグラスをひょいと取り上げてそのまま飲み干してしまった。
間接キスだ、と思ったら恥かしさと照れくささで身体がかぁっと熱くなった。
いい大人なのに、こんなことくらいでドキドキするなんて
今日の私はどうかしている。
「このコンペに参加できて よかった」
そう微笑む彼は、あの頃も今も私の心を揺さぶる。
ああ、お願いだからそんな風に私を見ないで。
「頑張ってね」
微笑んだまま「ああ」と小さく頷いてグラスをテーブルに戻した彼が
私との距離を一歩詰めた。反射的に同じ距離だけ後退りする私を
また一歩、ゆっくりとその距離を縮めた彼が眼鏡を外した。
何歩も退かないうちに私は壁へと追い詰められ、伸ばされた彼の右腕が壁をついた。
「君に逢えて 嬉しい」
成瀬くん―――
遮るものの無い熱い視線に見つめられて
これ以上ここにいてはいけないと心が警鐘を鳴らした。
なのに・・・
伸ばされた勇人の左手が頬に触れるのを拒むことができなくて
近づいてくる瞳に そらすことができない視線は、ただ伏せることしかできなくて
私の名を呼ぶ勇人の吐息を唇にかすかに感じたその時
ポケットで鳴り出した小さな電子音に、私は正気をとり戻した。
確かめなくてもわかるその音は雅也専用の着信音。
「ごめんなさいっ」
「藤崎!」
「失礼します!」
勇人の胸を押しやって、逃れるように部屋を出てたところで
慌てて携帯の通話をオンにしたのに、どうやらタッチの差で切れてしまったらしい。
繰り返されるツーという電子音を聴きながら
まるで見計らったようなタイミングで雅也からの着信があったことに背筋がすっと冷えた。
私は・・・何をしようとしていたの?
通路を駆けながら視界が段々とぼやけてきた。
だめ、こんなところで泣いちゃいけない。
その場にうずくまりそうになるのを堪えてエレベーターへと駆け込んだ。

