プラスティック・ラブ


ふと時計を見ると午後9時を何分か過ぎていた。
どうせ館内にいるのだから、と同僚の残業を代わりに引き受けた。
単調で単純なデータの打ち込み作業に固まりかけた肩を解しながら見回せば
さっきまで残っていたもう一人の同僚ももういない。
そろそろ片付けて今日からしばらく自分の部屋となる客室へ行こう。
これ以降何かあったら部屋へ内線を回してもらえばいい。
そうフロントに伝えるために電話に手を伸ばしたら、見計らったように電話が鳴り出した。



こんな時間に 誰だろう。もしかしたらチーフかもしれない。
きっと一人残ってる私を気遣ってくれたのかも。




「はい、藤崎です」
「・・・あの」




聞こえてきたチーフではない低い声に緊張した。




「はい?」
「藤崎・・・彩夏さん?」
「そうですが」
「久しぶり。わかるか?」




ああ、もしかしてこの声は・・・




「成瀬くん」




小さなため息を漏らして目を閉じてしまったのを
誰にも見られなくて良かったと思った。




「話は梶山から聞いた。よろしく頼むな」
「ええ、こちらこそ」




優しさと親しみの込められた口調に遠く過ぎた時間が戻ってくる思いがした。




「こんな時間だから、もう居ないかと思ったのに。まだ帰らないのか」

「いいえ、もう上がるところ。この電話が最後よ」

「ああ・・すまない。引き止めてしまったか」




ほらね。
こんな風に気を使える人なのよ。気難しいなんてことないでしょう?と
あのコマネズミ部長に言ってやりたい。




「大丈夫。どうせ帰るのはこのホテルの部屋だもの」

「・・・どういうことだ?」



事の経緯を話すと勇人はとても恐縮して、何もそこまでしなくてもいいからと
上に話をつけると言ってくれた。



「ありがとう。そのお気持ちだけで十分です」

「でも」

「ねぇ、それって言い換えると『深夜に起され呼び出される事はない』って事よね?」

「もちろん、当然だ」

「なら、問題なし」

「しかし、だな」

「ここだけの話だけれど、スタンダードじゃなくて
ラグジュアリーのお部屋を使わせてもらえるの。
せっかくのチャンスを潰さないで欲しいわ」


あんなに気が進まなかったのに、こんな風に言えてしまうなんて・・・ね。



「わかった」とクスクス笑う彼の気配が嬉しくて
懐かしいあの頃に戻ったような会話のテンポが楽しい。
こんな風に穏やかに話が出来るなんて思ってもみなかった。
嬉しい誤算に頬がつい弛んでしまう。



いやだ。私、なんだか少しはしゃいでる。



おじい様の容態についてや、梶山くんのことなどを少し話して
尽きない話に名残を惜しみながら、おやすみなさいの挨拶をして受話器を置いた。



まだ胸がドキドキと躍っている・・・



熱に浮かされたような、ふわふわとした甘い余韻に包まれて
ぼぉっとしていたら、またすぐに目の前の電話が鳴って
私は弾かれたように受話器を掴んだ。




「何度も、すまない」




その声に、呼び出し音に霧散した甘い余韻が戻ってきた。




「何度もって、まだ二度目よ?」




それはそうなんだけど、とらしくなくうろたえる相手に私は微笑んだ。
こういうところは昔のまま変わらない。
そんな勇人を知る私を、今はとても誇らしく思える。
だからこそ このお役目が他の人に回らなかったのだから。



「で、成瀬さま。いかがなさいましたか?」


用件はシャンパンのルームサービス。
時差と疲れを無理やり取るための寝酒にするなら
ブランデーの方がいいのでは?と思ったけれど
好みや習慣は人それぞれだ。こういうお奨めは押し付けにならないとも限らない。
「かしこまりました」と一旦置いた受話器を、また取ってラウンジにオーダーを通した。