一ヶ月ほど過ぎた。

東京での個展を終えた打ち上げがあるから──というので、麻里菜は饗庭センセに呼ばれてホームパーティーの席へと招かれることになった。

「でも未成年ですし」

「大丈夫やって、ちょっと珍しいジュースを北海道から取り寄せとるし」

あとから届いた地図を見ると、智恵光院笹屋町とあるから、外国語大学の裏手の麻里菜の家から、そう遠くはない。

麻里菜は行ってみることにした。



その日。

山ノ内からバスを乗り継いで今出川浄福寺から歩くと、示された地図の辺りにはもとは唐紙屋だったという京町家の、饗庭センセの自宅を兼ねた事務所が建っていた。

「おう、よう来たなぁ」

まぁ入りや、と饗庭センセは相変わらずのニコニコした様子で、格子戸を開けて快く麻里菜を迎え入れた。

「うちの人、ああ見えて寂しがり屋だから、ついああやってみんな呼んじゃうんだよね」

仕出し屋から運ばれてきた料理を取り分けながらエマは言った。

こんな狭い事務所によくぞ入ったなといわんばかりに、十人近くは都合いたであろう。

麻里菜はサラダを皿に取った。

すると。

奥に独りぼっちで、椅子にあぐらをかいてチビチビと舐めるようにワインを呑みながら、出された唐揚げを素手でムサムサ食べている男が目についた。

この間の錦天神のビニ傘の若者である。

「あっ…こないだはありがとうございました」

麻里菜は礼を述べた。

錦天神はチラッ、と一瞥したあと、

「無事で良かった」

といい、再びワイルドに唐揚げを素手でムシャムシャ食べ始めた。

「せめてお名前だけでも」

「照(てる)、って呼んでくれ」

照はワインを空けた。

「あ、ワイン持ってきますね」

「ちょっと」

照は呼び止めた。

「そこの、炭酸ジュースにしてもらえないですか」

指差した先には見慣れない銘柄の、オレンジ色をした炭酸ジュースがある。

「これ…?」

照は指で合図した。

麻里菜がボトルを携えると、

「ありがと」

といってみずから注ぎ始めた。

「ナポリンかぁ…昔北海道に行ったとき、飲んだことがある」

一気に飲み干した。

「行ったことあるんですか?」

「何となく旅で」

変わった言い回しに麻里菜は、

「何となく、かぁ」

さすがに北海道は行ったことないからなぁ、と麻里菜は言い、

「良かったら旅の話、聞かせてください」

「うん」

ここじゃ騒がしいから、と照は事務所の玄関に置かれてあった縁台に移った。

麻里菜もついてきた。

焚いてあるのか蚊取り線香の香りがする。

どこか説明下手な、それでいて丁寧な言い回しで、照は注いだナポリンを飲んでから語り始めた。



照と麻里菜は旅の話ですっかり打ち解けていた。

山の中の温泉の湯壺が深すぎて溺れそうになったこと、知床で宿が見つからず見知らぬ婆さんの家に泊めてもらったこと…などなど。

ゆっくりした語り口ながら間が妙におかしいので、つい引き込まれて、麻里菜は笑ってしまう。

気づくと麻里菜と照は二人きりになっていた。

時計は一時近い。

「もう終電もないから泊まってきや」

饗庭センセが言った。

照も麻里菜も、この日は饗庭センセの事務所に別々で泊めてもらったのであった。



翌日。

朝早く、麻里菜は慌ただしく美容院へと出勤していった。

照はまだ眠っている。

陽が高くなってきた頃、ようやく照が起きてきた。

「だいぶん昨日は盛り上がったみたいやな」

珍しいな瀬戸口、と饗庭センセは言う。

「…あの子、どう思う?」

「まぁ普通に素直でいい子だな、って」

「どや?」

「うーん…」

まだ例のこと引きずっとんかいな、と饗庭センセは言った。

「そういう訳ではない」

多分あの子、彼氏いるぞ──と照は言った。

「またそれや。お前なぁ」

「あのな饗庭…引きずるなって方が、無理な気がするんだけどもさ」

饗庭センセは黙るしかなかった。



いっぽう。

麻里菜は美容院でいつものようにアシスタントとしてタオルを用意したり、切り払った髪を掃いたりしていたが、少し立ち眩みを起こして早退を命じられた。

──見てみぃ、あれきっとこき使いすぎやで。

時に口さがないのが町衆である。

ところで。

山ノ内のアパートに麻里菜が帰ると、ダニエルから手紙が来ていた。

「検査に合格してしばらく入営することが決まった」

という内容である。

「兵営は通信が禁止だから、しばらく連絡とか取れなくなるけど、心配はしないで欲しい」

といった話で、

「最後に。
 麻里菜を、愛してます。
     ダニエルより」

このストレートさが、日本人にはない。

麻里菜は手紙を読みながら、顔どころか耳まで真っ赤になった。