「どうしたの、泣いてるの?」
「泣いてねぇよ」

ぐしぐしを目を擦った俺の目の前に差し出された白色のハンカチ。
さっき死のうとしていたのにどうしてこいつはこんなにさっぱりしているんだろう。

「泣きたい時は泣けばいいと思うわ。涙は心のカタルシスだもの」
「か、カタルなんとかって、なんなんだ」
「カタルシス。浄化作用のことよ」

四字熟語は俺の頭を困らせる。
もらった白のハンカチで目頭を拭きながら必死で意味を考えたが、数式にしか働かない数学バカの脳みそはすぐに考えることを放棄した。

「あんたの名前は……学年は、なんだよ」

見る限り俺と同じくらいだろう。フェンスの向こうにいた時は少し位置の高いところに乗っていたから分からなかったが、対峙してみると意外と小さい。
スカートから伸びる脚はもらったハンカチよりも白くて、人間の肌なのかと疑いたくなる程だ。

「梶木遥。遥って呼んで。学年は二年生よ」
「二年生って……」

先輩だったのか、と思うのと同時にしまったと後悔した。
俺は先輩に向かってずっとあんた呼ばわりしていたし、気づいていないだけで失礼なことを言ってしまっているかもしれない。

「敬語はいいわ。どうせ何ヶ月かの差なんだもの。私のことは遥って呼んで。あなたのことは……えっと、何だったかしら?」
「し、翔太ですよっ!」

さっき名乗ったのに何を忘れているんだこの人は!

「翔太ね。名前の概念って誰が考えたんでしょう。ひとつひとつに名前があるなんて煩わしいったらありゃしないわ。……あと、敬語はいいわよ」
「さっき言ってたこととほぼ逆のこと言ってんだけど……」
「そりゃそうよ。人間の思想とは常に変化するものなの。人生は素晴らしいと思っていても次の日財布を落としたら人生なんてくだらないと思うでしょう」

ふふ、と怪しく笑う。
俺も二年生になったらこんな難しい言葉を並べて話せるようになるのだろうか、いや無理に決まっている。

遥の真横に切りそろえられた前髪がなびくのと同時に予鈴が鳴った。
次の時間が体育なのを思い出した俺は弁当箱を抱えて走って降りていった。

「ねぇ翔太」

階段を降りる途中でふと呼び止められる。

「なっ、何!?今急いでんだけど!」
「明日もここにくる?」
「あー来る来る!俺急いでるからばいばーい!」

手をふる余裕もないまま立ち入り禁止を乗り越えると猛ダッシュした。
急がないと着替えるのが遅くなる上に教室の鍵閉めの役になってしまう!

遥の問いかけに適当な返事をしてしまったのは悪かったけれど、仕方の無いことだ。
それにもうどうせ屋上には行かない。
あんな心臓に悪いことはもう御免だ。




しかし、走る俺は気がつかなかった。
思い入れのある大事な箸を、屋上に忘れてきたことに。