「おい!やめろよ、そんなとこで。危ねぇぞ」

フェンス越しに揺らぐスカート、腰まである漆黒のロングヘア。
生徒数の多い学校だから仕方が無いが、俺はこの女生徒の名前も何も知らない。

「あなたは誰?」

たぶん、グラスとグラスを軽くぶつけたらこんな澄んだ音が出るんだと思う。
澄んだ青空に相応しい透明度の高い声だった。

「俺が誰だとかそんなんどーでもいいじゃんか!それより、そこ降りろよ」
「ダメよ、名前は個人の識別の方法の
ひとつなのよ。とっても大事なことだわ」
「……はぁ!?」

国語の弱い俺は熟語が3つ以上出てくると何も考えられなくなる。フェンスの向こうの女生徒は仁王立ちして俺を見据えながら名前とはなんたるものかをしばらく語った。

「名前とはあなたがあなたであることを示す確固たるアイデンティティなのよ。同じ構造をしている人間の識別のための重要な要素なの。あなたに名前が無かったらあなたはただの人間だし、もっと言ってしまえばあなたはただのタンパク質だとも言えるのよ」

だめだ、とてもじゃないけれど日本語とは思えない。こんなの聞くくらいなら英語のほうがまだ理解できる。

「あーはいはい、名乗ればいいんだろ。俺の名前は本田翔太だ。今年この高校に入学してきたピカピカの一年生だ。……これでいいか?」
「翔太ね。どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだ。なんであんたはそんなとこに居んだよ。怖くねぇのか?」
「怖い、ねぇ……本能的に人間は死を拒む生き物だから怖いことには怖いわよ。でもこの一瞬の恐怖が私を長い苦しみから開放してくれるかもしれない、という曖昧さにすがるかすがらないかで迷っている最中なの」

アイマイ?
中学生の時にとった国語のテスト6点が俺の脳内を埋め尽くす。
だめだコイツの言うことはきっと日本語じゃないんだ。日本語だとしてもきっとどこかの方言だ。

でも、唯一理解できることとしては……。

「あんた、死にたいのかよ」

その瞬間、風が強く吹いた。
マズイと反射的に悟って駆け寄った俺は、目の粗いフェンスに腕を突っ込んで訳のわからないことを言う女生徒の腕をきつく掴んだ。
強い風に煽られて飛んでいかないのが不思議なくらいその身体は細くて弱々しい。

「死にたい……ねぇ」

風が俺と女生徒の制服の袖をめくる。露出した彼女の左の手首を見て、俺は喉の奥が焼け付いた。

「翔太は死にたいって考えたこと、ある?」

真っ赤な手首が真っ青な空によく映えていたのを、俺はこの先ずっと忘れない。忘れられるわけがない。