「翔太ー。翔太、ちょっと翔太ー」
「んだよ母さん。そう何度も呼ばなくたって聞こえてるよ」
「箸が無いの。カバンに入ってない?」

自分の部屋で漫画を読んでいた俺はノックも無しに入ってきた母さんを内心疎ましく思いながら通学カバンの中を確かめた。
おかしい。タオルに制汗剤に、無駄なものが多い俺のカバンの中にどうしても箸が見当たらない。

「……無い」
「えーっ、どこにやったのよぉ全く」
「俺もわかんない……」

そこまで言ってようやく俺は屋上に忘れてきたことに気がついた。
あの時焦りすぎていたせいで箸を起き忘れたなんて全く気がつかなかったのだ。

あの屋上に行くということはあの先輩にもう一度会うということで。
それはどうにかして避けたかった。
でも明日は午前の3限がみんな移動教室だし屋上に行く暇がない。
かといって先延ばしにするのも気が引ける。

こうなったら昼食の前に手っ取り早く取りに行くしか無いだろう。

「あの箸大事なものなんでしょう?」
「あぁ、そうだよ」
「中学生の頃からずっと使ってるものね」
「あの箸で食わねぇとメシが旨くねぇんだ」

あの箸が大事な箸だということは母さんと了平と駿介だけが知っている。
どういう事情で大事なのかは了平と駿介だけが知っている。

「明日学校で探してみるよ、母さん」
「はいはーい」

やっと俺の部屋から出て行った母さんは上機嫌に鼻歌を歌いながら一階に降りていった。


ふと気になって俺はかすかに開いた扉から妹の美由紀の部屋を覗いた。
美由紀の部屋は硬く閉ざされて、物音ひとつしない。
また今晩も帰りが遅くて心配だが、美由紀のことだし大丈夫だろう。

「梶木遥かぁ……」

漫画をペラペラ捲りながらほっそりとした脚やつやつやの黒髪を思い出す。

『翔太は死にたいって考えたこと、ある?』

「……バカかよ」

二年生の学年トップにそんなことを吐き捨てるのはなんとなく負けた気になるけれど。
本当に難しい言葉ばかり話す人だった。でももう二度と会いたく無い。



眠りとは突然やってくるもので、その夜は課題も何もしないまま寝てしまった。