384 ― 水乃Side
水乃Side
それからというもの、木南さんが早手のそばにいる光景は、珍しいものではなくなっていた。
休み時間になると教室まで早手を呼びに来て、廊下ですれ違えば必ず声をかける。放課後も、早手が部活へ向かう時間になると、どこからともなく姿を見せるようになった。
最初は偶然だと思っていた。
でも、違う。
木南さんは明らかに、自分から早手との時間を作ろうとしていた。
「早手!」
その日も休み時間になって間もなく、教室の入口から木南さんの声が聞こえてきた。
私は机の上に広げていた教科書へ視線を落とす。
見ない。
今日は絶対、見ない。
そう決めたはずなのに、耳だけは勝手に2人の会話を拾ってしまう。
「……また来たの?」
「うん。早手に見せたいものがあって」
「何?」
「ちょっとこっち来て」
「ここでいいじゃん」
「えー、ちょっとだけ!」
早手が小さくため息をつくのが聞こえた。
それから椅子を引く音がして、私は思わず顔を上げてしまった。
早手が立ち上がる。
その隣で木南さんが嬉しそうに笑っていた。
前だったら、きっと早手は立ち上がりもしなかった。木南さんが何度呼んでも、面倒そうに返事をするだけで、わざわざ自分から近づくことなんてなかったのに。
「……すぐ戻るから」
「うん!」
2人が教室を出ていく。
その背中を見送ってから、私はようやく息を吐いた。
「…………はぁ」
何で、こんなに気になるんだろう。
ただ話しているだけなのに。早手が木南さんのことを好きになったわけじゃないって、ちゃんと分かってるのに。
それでも、以前なら見られなかった2人の距離が、少しずつ当たり前になっていくのが嫌だった。
……嫌?
自分で思った言葉に、胸がぎゅっと縮む。
嫌だなんて、そんなこと私が思っていいはずないのに。
だって、木南さんに言ったのは私なんだから。
――これからも早手を頼っていいよ。
――早手と一緒にいたいなら、一緒にいていいと思う。
あの時は、本当にそう思った。
木南さんには早手が必要で、早手がそばにいることで少しでも安心できるなら、それが一番いいんだって。
でも、実際に2人が一緒にいるところを見ると、頭で考えていたようにはいかなかった。
胸がざわついて、何も手につかなくなる。
気にしないようにすればするほど、早手の声ばかり探してしまう。
……私、何やってるんだろう。
***
放課後。
部活へ向かう途中、廊下の向こうから楽しそうな声が聞こえてきた。
「早手、ねぇ、これ見て!」
「……何?」
「この前話してたやつ!」
「あぁ、それ?」
「そう! どう思う?」
木南さんだった。
早手のすぐ隣に立って、スマホの画面を見せている。
早手は少し屈むようにして画面を覗き込み、何かを答えていた。
思わず足が止まる。
近い。
木南さんの肩が、早手の腕に触れそうなくらい。
しかも木南さんは、それを気にする様子もなく、楽しそうに早手の顔を見上げていた。
「……水乃?」
隣にいた優希が振り返る。
「どうしたの?」
「あっ……ううん、何でもない!」
慌てて歩き出す。
でも、通り過ぎる時。
「早手、今日も部活?」
「うん」
「何時くらいに終わる?」
「……何で?」
「んー、ちょっと聞いただけ」
木南さんが笑う。
「終わったら連絡してよ」
「いや、別にいいって」
「えー、何で?」
「何でって……」
早手が困ったように笑った。
「……また今度な」
「ほんと?」
「……うん」
「やった!」
「…………っ」
胸の奥が、どくんと鳴った。
また今度。
早手が。
木南さんに。
……また今度って。
別に約束したわけじゃない。
早手だって、適当に返事をしただけかもしれない。
それくらい分かってる。
でも、そんな小さなやり取りさえ、今の私には聞きたくなかった。
***
部活が始まってからも、なかなか集中できなかった。
ボールを片づけていても、ドリンクを準備していても、ふとした瞬間にさっきの光景が浮かんでくる。
木南さんが早手を見上げて笑っていたこと。
早手が以前ほど嫌そうにしていなかったこと。
そして。
『……また今度な』
その声。
何度も頭の中で繰り返してしまう。
私には、もう。
一緒に帰ろうって言ってくれなくなったのに。
「…………っ」
そこまで考えて、慌てて首を振った。
違う。
早手が言わなくなったんじゃない。
私が断ったんだ。
私が何度も早手から離れて、話しかけられても避けて。
挙げ句の果てに。
――早手とのこと、忘れたい……。
あんなことまで言った。
それなのに、今さら早手が近づいてこないことを寂しがるなんて。
本当に、勝手すぎる。
「水乃、これお願いしていい?」
「……あっ、うん!」
優希から渡されたタオルを受け取り、慌ててベンチの方へ向かう。
その途中、コートの中にいる早手が目に入った。
ボールを受け取って、軽やかにディフェンスを抜いていく。
いつも通りの早手。
真剣な横顔。
シュートを決めて、仲間と笑い合う姿。
ずっと見てきた。
小さい頃から、何度も。
あの笑い方も。
少し得意そうな顔も。
全部、知ってる。
「…………」
好き。
その言葉が浮かびそうになって、慌てて視線を落とした。
ダメ。
考えちゃダメ。
私はもう、前に進むって決めたんだから。
慎と過ごした時間は、本当に楽しかった。
手を繋いで、抱き寄せられて、胸がいっぱいになった。
慎のことをもっと知りたいって思ったのも、嘘じゃない。
なのに。
早手を見れば、こんなにも心が揺れる。
自分の中に、全然違う気持ちがいくつもあって、どれも消えてくれなくて。
胸の中が、ずっと騒がしかった。
***
練習が終わりに近づいた頃。
体育館の入口に、見覚えのある姿が現れた。
「…………」
木南さん。
また。
今日も。
早手を待ってる。
スマホを見ながら、時々体育館の中へ視線を向けている。
もう、驚かなかった。
最近は、これが当たり前になりつつあるから。
でも、慣れたわけじゃない。
むしろ、見るたびに胸の奥が落ち着かなくなる。
「早手!」
練習を終えた早手が入口の方へ向かうと、木南さんがすぐに駆け寄った。
「……何?」
「今日さ、ご飯食べて帰らない?」
「え?」
「お腹空いたし、ちょっとだけ!」
「……今日は無理」
「そっかぁ……」
木南さんが少し残念そうに笑う。
それを見て、早手が何か言いかけた。
「じゃあ、明日は?」
「……明日も分かんねぇけど」
「じゃあ、空いてたら行こう?」
「…………」
少しの沈黙。
私は思わず、手に持っていたタオルを握りしめた。
断って。
そんな言葉が、頭をよぎる。
……違う。
何考えてるの。
「……その時な」
「ほんと? 約束ね!」
「約束はしてねぇって」
「ふふっ、分かってる!」
木南さんが嬉しそうに笑った。
「…………っ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
早手は約束なんてしてない。
ただ、はっきり断らなかっただけ。
それだけなのに、木南さんがあんなに嬉しそうにしているのを見ると、どうしようもなく苦しくなる。
あの子は、早手のことが好きなんだ。
今も、ずっと。
だから、少し優しくされるだけで嬉しくて。
少しでも一緒にいられたら、それだけで幸せなんだと思う。
「…………」
分かるよ。
その気持ち。
だって、私もそうだったから。
早手が笑ってくれたら嬉しくて。
名前を呼んでくれたら、それだけで幸せで。
ほんの少し触れられただけで、胸がいっぱいになって。
……今だって。
「…………っ」
私は慌てて俯いた。
これでいい。
木南さんが嬉しそうなら。
早手が以前より優しく接してくれているなら。
これで、いいんだよね。
そう思おうとした。
でも、どうしても。
心のどこかで。
……早手。
私には、もうあんなふうに笑ってくれないの……?
そんなことを考えてしまう自分がいた。
水乃Side
それからというもの、木南さんが早手のそばにいる光景は、珍しいものではなくなっていた。
休み時間になると教室まで早手を呼びに来て、廊下ですれ違えば必ず声をかける。放課後も、早手が部活へ向かう時間になると、どこからともなく姿を見せるようになった。
最初は偶然だと思っていた。
でも、違う。
木南さんは明らかに、自分から早手との時間を作ろうとしていた。
「早手!」
その日も休み時間になって間もなく、教室の入口から木南さんの声が聞こえてきた。
私は机の上に広げていた教科書へ視線を落とす。
見ない。
今日は絶対、見ない。
そう決めたはずなのに、耳だけは勝手に2人の会話を拾ってしまう。
「……また来たの?」
「うん。早手に見せたいものがあって」
「何?」
「ちょっとこっち来て」
「ここでいいじゃん」
「えー、ちょっとだけ!」
早手が小さくため息をつくのが聞こえた。
それから椅子を引く音がして、私は思わず顔を上げてしまった。
早手が立ち上がる。
その隣で木南さんが嬉しそうに笑っていた。
前だったら、きっと早手は立ち上がりもしなかった。木南さんが何度呼んでも、面倒そうに返事をするだけで、わざわざ自分から近づくことなんてなかったのに。
「……すぐ戻るから」
「うん!」
2人が教室を出ていく。
その背中を見送ってから、私はようやく息を吐いた。
「…………はぁ」
何で、こんなに気になるんだろう。
ただ話しているだけなのに。早手が木南さんのことを好きになったわけじゃないって、ちゃんと分かってるのに。
それでも、以前なら見られなかった2人の距離が、少しずつ当たり前になっていくのが嫌だった。
……嫌?
自分で思った言葉に、胸がぎゅっと縮む。
嫌だなんて、そんなこと私が思っていいはずないのに。
だって、木南さんに言ったのは私なんだから。
――これからも早手を頼っていいよ。
――早手と一緒にいたいなら、一緒にいていいと思う。
あの時は、本当にそう思った。
木南さんには早手が必要で、早手がそばにいることで少しでも安心できるなら、それが一番いいんだって。
でも、実際に2人が一緒にいるところを見ると、頭で考えていたようにはいかなかった。
胸がざわついて、何も手につかなくなる。
気にしないようにすればするほど、早手の声ばかり探してしまう。
……私、何やってるんだろう。
***
放課後。
部活へ向かう途中、廊下の向こうから楽しそうな声が聞こえてきた。
「早手、ねぇ、これ見て!」
「……何?」
「この前話してたやつ!」
「あぁ、それ?」
「そう! どう思う?」
木南さんだった。
早手のすぐ隣に立って、スマホの画面を見せている。
早手は少し屈むようにして画面を覗き込み、何かを答えていた。
思わず足が止まる。
近い。
木南さんの肩が、早手の腕に触れそうなくらい。
しかも木南さんは、それを気にする様子もなく、楽しそうに早手の顔を見上げていた。
「……水乃?」
隣にいた優希が振り返る。
「どうしたの?」
「あっ……ううん、何でもない!」
慌てて歩き出す。
でも、通り過ぎる時。
「早手、今日も部活?」
「うん」
「何時くらいに終わる?」
「……何で?」
「んー、ちょっと聞いただけ」
木南さんが笑う。
「終わったら連絡してよ」
「いや、別にいいって」
「えー、何で?」
「何でって……」
早手が困ったように笑った。
「……また今度な」
「ほんと?」
「……うん」
「やった!」
「…………っ」
胸の奥が、どくんと鳴った。
また今度。
早手が。
木南さんに。
……また今度って。
別に約束したわけじゃない。
早手だって、適当に返事をしただけかもしれない。
それくらい分かってる。
でも、そんな小さなやり取りさえ、今の私には聞きたくなかった。
***
部活が始まってからも、なかなか集中できなかった。
ボールを片づけていても、ドリンクを準備していても、ふとした瞬間にさっきの光景が浮かんでくる。
木南さんが早手を見上げて笑っていたこと。
早手が以前ほど嫌そうにしていなかったこと。
そして。
『……また今度な』
その声。
何度も頭の中で繰り返してしまう。
私には、もう。
一緒に帰ろうって言ってくれなくなったのに。
「…………っ」
そこまで考えて、慌てて首を振った。
違う。
早手が言わなくなったんじゃない。
私が断ったんだ。
私が何度も早手から離れて、話しかけられても避けて。
挙げ句の果てに。
――早手とのこと、忘れたい……。
あんなことまで言った。
それなのに、今さら早手が近づいてこないことを寂しがるなんて。
本当に、勝手すぎる。
「水乃、これお願いしていい?」
「……あっ、うん!」
優希から渡されたタオルを受け取り、慌ててベンチの方へ向かう。
その途中、コートの中にいる早手が目に入った。
ボールを受け取って、軽やかにディフェンスを抜いていく。
いつも通りの早手。
真剣な横顔。
シュートを決めて、仲間と笑い合う姿。
ずっと見てきた。
小さい頃から、何度も。
あの笑い方も。
少し得意そうな顔も。
全部、知ってる。
「…………」
好き。
その言葉が浮かびそうになって、慌てて視線を落とした。
ダメ。
考えちゃダメ。
私はもう、前に進むって決めたんだから。
慎と過ごした時間は、本当に楽しかった。
手を繋いで、抱き寄せられて、胸がいっぱいになった。
慎のことをもっと知りたいって思ったのも、嘘じゃない。
なのに。
早手を見れば、こんなにも心が揺れる。
自分の中に、全然違う気持ちがいくつもあって、どれも消えてくれなくて。
胸の中が、ずっと騒がしかった。
***
練習が終わりに近づいた頃。
体育館の入口に、見覚えのある姿が現れた。
「…………」
木南さん。
また。
今日も。
早手を待ってる。
スマホを見ながら、時々体育館の中へ視線を向けている。
もう、驚かなかった。
最近は、これが当たり前になりつつあるから。
でも、慣れたわけじゃない。
むしろ、見るたびに胸の奥が落ち着かなくなる。
「早手!」
練習を終えた早手が入口の方へ向かうと、木南さんがすぐに駆け寄った。
「……何?」
「今日さ、ご飯食べて帰らない?」
「え?」
「お腹空いたし、ちょっとだけ!」
「……今日は無理」
「そっかぁ……」
木南さんが少し残念そうに笑う。
それを見て、早手が何か言いかけた。
「じゃあ、明日は?」
「……明日も分かんねぇけど」
「じゃあ、空いてたら行こう?」
「…………」
少しの沈黙。
私は思わず、手に持っていたタオルを握りしめた。
断って。
そんな言葉が、頭をよぎる。
……違う。
何考えてるの。
「……その時な」
「ほんと? 約束ね!」
「約束はしてねぇって」
「ふふっ、分かってる!」
木南さんが嬉しそうに笑った。
「…………っ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
早手は約束なんてしてない。
ただ、はっきり断らなかっただけ。
それだけなのに、木南さんがあんなに嬉しそうにしているのを見ると、どうしようもなく苦しくなる。
あの子は、早手のことが好きなんだ。
今も、ずっと。
だから、少し優しくされるだけで嬉しくて。
少しでも一緒にいられたら、それだけで幸せなんだと思う。
「…………」
分かるよ。
その気持ち。
だって、私もそうだったから。
早手が笑ってくれたら嬉しくて。
名前を呼んでくれたら、それだけで幸せで。
ほんの少し触れられただけで、胸がいっぱいになって。
……今だって。
「…………っ」
私は慌てて俯いた。
これでいい。
木南さんが嬉しそうなら。
早手が以前より優しく接してくれているなら。
これで、いいんだよね。
そう思おうとした。
でも、どうしても。
心のどこかで。
……早手。
私には、もうあんなふうに笑ってくれないの……?
そんなことを考えてしまう自分がいた。
