「じゃあ早速、明日から頼みたい。よろしくな」

「は、はい…よろしくね、エニシ君」

「こちらこそ」

そう言って今度はユカリから、エニシに向かって手を伸ばす。エニシは笑顔を崩さないまま、そっとユカリの手を両手で包んだ。エニシの白い手は、さらさらとしていて、少し冷たい。

「よ、よーし! 話がまとまったな! じゃあ、明日には本邸にハウスクリーニングと家電業者が入るけど、その辺も放っておいていいぞ。今日はこいつもビジネスホテルに泊まらせるから。ま、明日から宜しく頼むな」

ユカリは慌てるようにその場で頭を下げた。この新しいことだらけで混乱する時期にこんな頼みを引き受けたのは、彼女にとってほんの少しばかり恥ずかしい理由からだったからである。
 いきなり母も祖母も海外に飛んでしまい、一人で生活することになったのも急と言えは急だった。 

寂しくないといえば、嘘になる。

そこにやってきたエニシ。どうやら我儘の気がある可能性は否定出来ないが、見た目は人畜無害そうな彼ならば、ユカリのテリトリー内の端に居てもらうのは問題ないと踏んだのだ。

とりあえず明日の夕飯はどうしようか。ユカリは玄関で彼らを見送ってから、ぼんやりと考えると同時に、

「うーん…月6万はラッキーだなぁ」

門馬の電話番号が書かれたメモを片手に、本人達を目の前にしては決して言えないことを、口走った。

しかし残念ながらそれも門馬達の策の中だということは、ユカリにはどう足掻いても気がつけないのだった。



「いや、助かった助かった。こんな場所まで毎日お前の面倒なんか見に来れるかってんだ」

 緩やかな坂道を下りながら、門馬は安堵の息を吐いた。現実問題、エニシには監視と保護の目が必要である。それを館の持ち主に遂行してもらえることは警察にとっては一石二鳥なのだ。そんな門馬を見て、エニシが膨れたような演技をした。この表情は、エニシが相手を茶化しているときによくする表情なのを、門馬はとうに知っている。

「ひどいなぁ門馬さん。僕だって毎日門馬さんの顔見るんだったらユカリさんの顔見てた方が何千倍もいいからね。引き受けてくれてよかったよ」

「いいか。迷惑掛けんじゃねぇぞ。たとえあの子の作る飯が不味くても文句言うな」

「それは勿論。努力するよ」

エニシが風を正面から浴びて、目を細めた。しかしその少しばかり緩んだ表情は、門馬の心に暗雲しか呼び寄せてこない。嫌な、予感がする。門馬が自らの額に思い切り手を当てた。

「あー、今更になって心配になってきた。お前、解ってんだろうな。当初の目的」

「解ってる。情報は取り逃さない。結構時間が掛かると思うけど、先方には許してねって言っておいて」

「お前頭いい癖に本を読むスピードはその辺の奴らと変わんねぇもんな。FBI…、先方には上手く言うさ」

うん、よろしく。と軽々と言うエニシ。門馬は舌打ちをしたい気分になれど、あちこちに交渉し、大人に無理矢理作らせた時間を決して無駄にするエニシではない。彼がもっと有能な天才になる為には、相応の代償なのだ。

「俺の交渉技術、嘗めんで欲しいね」

「ふふ、わかってるよ。さっきだって、ユカリさんのこと上手く言いくるめちゃって。どうせ上からは僕の生存確認だけでも後者の値段払うように言われてたくせに」

「…やっぱお前にはばれるか」

「まぁね。でも、僕にとっても嬉しい誤算だし。門馬さんにはお礼言わないと」

門馬の頭上を漂っていた暗雲から、雷が迸った。

「あっ、てめぇ!!もしかしてその気でいやがんのか!! 迷惑掛けんじゃねぇって言ったばっかりだろう!! 」

「もう、なに言ってるの?門馬さんってば」

「それはこっちの台詞なんだよおいコラ! 」

「え? 」

いつのまにか降りていた緩やかな坂は終わりを迎え、町並みは少し浮き世離れした空気からしっかりと地に足が着いたような感覚すら呼び起こされる。屋敷は周囲を守る森を剥がされはしたものの、やはりどこか世間から断絶されたような雰囲気を持っていたのだろう。

その空気にあてられていたのか普段より大人しかったのに、下界に降りて来た途端急に元気になり始めた門馬を見て、エニシはため息を吐いた。ため息を吐いてから、少し笑った。その笑いの真意は、勿論門馬にはわからない。

「全くもう…、あ、ホテル着いたみたい。じゃあね、門馬さん。今日はどうもありがとう」

「待て! お前がその気なら話は別だってんだよ!! おい!! エニシ!! 」


エニシは門馬に振り返ることもなく、ホテルのロビーに吸い込まれていった。これは何を言っても無駄であることは、エニシをアメリカの高校、大学時代から護衛をしている門馬ならば容易に察知出来てしまう。
門馬は頭を抱えた。頭を抱えては、エニシ程高速で回転しない頭を必死に動かして、遠い海を越えた場所、アメリカでの彼の行動を思い出す。


「待て待て待てよ…確か、図書館司書のケリーに、隣人のお嬢さんだったサーシャ。加えて准教授のミラルダ…。くそっ、どんぴしゃじゃねえかよ…!! 」

門馬は乱暴に髪を掻いた。それでも焦りはなくならなくて、無意識にポケットを探った。最近禁煙に成功した彼のポケットには、勿論煙草もライターも見当たらない。
こうなったら、祈るしかない。門馬はがっくりと肩を落としてこそりと呟いた。

「あのマセガキ…!! 」

 そのまま門馬はぼんやりと空を見上げた。兵藤家の当主、ユカリの祖父は大層曲者で有名な話だ。だから孫もしっかりしていると勝手に踏んだこちらにも非はあるが、それにしたって、

「おいおい…本当に大丈夫だろうな…? 」

門馬の心配をよそに、ユカリが少しばかり気分を踊らせながらコーヒーカップを片付けていることなんて、彼が知るよしもないのである。