「で、だ。何故こいつの育成に兵藤家本邸を使わせてもらうことになったかっつーことだけどな…」

ごほん、と一つ咳払いをした門馬は、眉間に一層皺を寄せた。それから、ここから先は他言無用なんだが、と付け加え、ユカリがそれに頷いてから、話は始まったのだ。

「実はこいつな、IQ200弱…詳しい数字は忘れたが、そんな超人的な頭脳の持ち主でな」

「えっ? 」

「将来はもうアメリカのFBI捜査官の一員になることが決まっている。…といってもそんな遠い未来じゃなくてな。遅くても数年後には特別捜査官になるっていうvip待遇付きでアメリカに行くんだ」

「で、でも今、エニシ君16歳…なんですよね? 高校生にそんなことさせちゃうんですか? アメリカって…」

「まぁお約束といえばお約束だが、こいつは今年の春にハーバード大を首席で卒業してやがる」

「え、ええええ? 」

「で、だ。本当ならいち早くFBIに配属される予定だった所に、兵藤家からの本邸管理の申し出があってな。こいつが興味を示したんだよ」

ユカリは無意識に瞬きを重ねながら、エニシを見る。エニシは誇れる事を言われているはずなのに何故だか少し眉を下げていて、ユカリはまた無意識に首を傾げた。二人の微妙な空気感に気がつかないのか、門馬はまだ説明の手を緩めない。

ユカリはエニシの表情が少し気になったけど、まずは門馬の言葉を飲み込むことが優先されるべきだと判断して、門馬の方を見た。しかし次の言葉は予想外にもエニシから飛んできたのだ。

「ちょっと、興味があるんだ。警察って本当に必要な情報しか管理下に置かないし…けれど、ユカリさんのひいお祖父さんは全てが情報屋をやるにあたって必要だったから、ここのお屋敷に綺麗に残しておいたんでしょう? 一体どんな本があるか、うん。ちょっと…いや、とても興味がある」

門馬は一つ、ため息を吐く。きっとエニシが相当我儘を言った末に通った話なのだということが、そのため息に詰め込まれていた。

「…つーわけだ。だからエニシの気が済むまで本邸ごとエニシに使用させて情報収集をしてもらうことになってだな。…まぁ、確かにエニシの言う事も一理あるんだよ。こいつの場合、持っていて不必要な情報なんて無い。全部覚えていられるだけの、またその情報を色んな他の情報とリンクさせられる頭脳は持っているからな。今後FBIで必要になる情報が、あの屋敷にあるかもしれないということも、まぁ上が頷いた要素ではあった。だから今回のようなワガマ…、いや主張が通ったんだ」

「えっと、じゃあつまり図書館屋敷を、エニシ君が暫くは管理してくれるってことですか? 」

門馬がゆっくりと頷いた。そこには少しの諦めと、少しの投げやり感が含まれている。

「うん。暫くあのお屋敷に住まわせてもらうことになりました。改めて、よろしくお願いします」

「えっ、住むの? 通いじゃなくて!? 」

今度はエニシがゆっくりと頷いた。しかし門馬とは違い、妙に晴れやかな顔をしている。

「こいつ今まで外国にいたからなぁ、日本に住む所無いんだよ。それを兵藤夫妻にそれとなく伝えたら、元々本邸だったから十分に住めると行ってくださってな…だから、屋敷の管理はエニシにまとめてやらせて構わん」

エニシ君、両親は?

ユカリは混乱を喫するその口で聞こうとしたけれど、二人からその言葉が上ってきそうな雰囲気はまるでない。つまり、なんらかの理由でエニシは両親と一緒にはいられないのだろう。ユカリは口を噤んだ。

何はともあれ、ユカリは今後図書館屋敷の面倒は見なくていいことになったことには変わりない。その事を喜ぶことにしようと、わかりましたと返事をしようとしたユカリに、門馬は更に言葉を重ねた。その少しばかり拍のついた勢いに押されて、ユカリは一つ返事をしたのだ。

「で、だ!本邸は丸々エニシに任せるとして…お前さん、ちょっとばかりバイトしないか? 」

「バイト…ですか? 」

「おお。簡単な作業で月3万は稼げる!お得もお得なバイトだ!! どうする? やるか? 」

つい先ほどまであれだけため息まじりに話していた門馬が、今度は子供のように目を輝かせている。ユカリは疑った。態度が違いすぎるのだ。何か危険なバイトではないだろうか。

「い、いえ…私、いいで…」
「一日一回!一回だけ屋敷に行ってエニシが生きてるか確認するだけで日給1000円! 一ヶ月で約3万! こんな得するバイトないぞ? どうだ? 」

「い、生きてるかって…そんな大袈裟な…」

ユカリの小さなツッコミに対して、いいや!と門馬は大きく首を横に振った。なんだか子供のような仕草だが、彼がやるとそれだけ熱意を込めたが故のジェスチャーだということが見て取れてしまう。門馬はそれだけ本気、ということだろうか。

「こいつな、集中し始めると文字通り寝食忘れて没頭しちまうから、脱水症状でぶっ倒れたり睡眠不足でぶっ倒れたりするんだ。だから監視役が必要になるんだが警察が毎日ここに来るのは中々難しい…そこでお前さんを雇って生存確認だけでもやって貰えれば御の字なんだが…なに、わざわざ毎日顔を合わせなくてもエニシが生きてるって分かりゃいいんだ。玄関で返事させるだけでも構わねぇ。どうだ? 」

水を得た馬…もとい魚のように饒舌に語り出した門馬を見て、ユカリはいかにエニシが我儘を言ったのかが理解出来た。
パッと見た印象では大人しそうな雰囲気を持つエニシだが、それは見た目だけだということだろうか。ユカリはそれを頭の中に思い描いては憐れみの息を吐かざるをえなくなった。恐らく、図解はこうだ。

IQ約200の超天才少年が、天才故にチヤホヤされた挙句の我儘に振り回される大人達。

門馬が必死になる理由を悟り、ユカリは決めた。どっちにしろ、屋敷の管理に比べたら彼の生存確認をする方がずっと楽だ。ほぼ何もしないで毎月3万円貰えるのは寧ろラッキーと言ってもいい。

「わかりました。じゃあ私…」
「ちょっと待った!! 」

ここでテンションが上がってきたのか、門馬がその大きな手のひらをユカリに見せるように開いた。所謂『待った』のポーズである。
反射的にポカンと開けたユカリの口に、門馬はどんどん言葉を詰め込んでいく。

「あとちょっとやることが増えるが、貰える金額が倍になるパターンもあるがどうだ? 月6万だぞ? 」

二カーッと笑う門馬の表情は、彼のテンションと比例するように胡散臭さが増していく。ユカリは少し眉を寄せると、とりあえず話を聞くべくコーヒーを一口飲んだ。エニシもチラリとユカリを見てから、それに倣うように薄くなったブラックコーヒーを啜る。

「まぁ、単刀直入に言うとだな、エニシの飯の世話をしてくれたら倍額、更にエニシの分の食費もこちらで負担する。どうだ? 」

「え…、ごはん、ですか? 」

「そうだ。先ほども言ったが、エニシの奴の集中力は尋常じゃなくてな。ヘタすると食事もままならなくなっちまう。勿論3食全ての世話を頼むつもりはない。お前さんがこの家で食事を摂る時に本邸で1食分多く作るなり買ってくるなりしてくれれば十分だ。本邸の方にも生活家電等を置いていいとお前さんの祖父さんから許可は頂いたし、そちらもこっちで用意する。どうだ? それだけしてくれれば月6万! 更にエニシの分の食費も出るなら十分な報酬だと思わないか? 」

「え、えー…それは、そうですが…」

ユカリも一人暮らしを始めて非常に日が浅い。加えて入社した日も浅く、新しいことだらけの彼女には、それこそ十分すぎる程の刺激であった。しかし、

「チラッと見に行った時、もしエニシが空腹でぶっ倒れてんのも可哀想だろ? 掃除や洗濯は自分でやらせればいいから、食事だけ頼むよ。な? 」

「…たまには買ってきたものでもいいってこと、ですよね」

「無論構わない。なぁ、エニシ? 」

「うん」

「なるほど…」

駄目押しとばかりに、頼む!と思い切り両手を合わせた門馬の分厚い手が、パン、と小気味よい音を立てた。祈るように、ギュッと目を閉じてから、そーっと目を開けてユカリを見る。

ユカリは、笑っていた。困ったように寄せた眉は、「仕方ないなぁ」という言葉を十分に含んでいる。
門馬がこの短時間で得た彼女の人となり。彼女はどうやらよくも悪くも『常識人』なのだろう。門馬は『可哀想』という言葉を使うことでユカリの『常識力』を突いたのだから、当然と言えば当然だった。まんまと引っ掛かったのは、ユカリだ。

「やります」

「お…、おう! そうか!! よかったよかった!! 」

わははは、と大きな笑い声を上げながら、門馬はユカリの手を思い切り掴んで振り回す。その勢いで身体まで揺れているユカリを見て、エニシは小さく笑った。