駅から延びている緩やかな坂道をひたすらにまっすぐ進んで、小高い丘にたどり着けば、その屋敷はすぐ目の前にそびえ立っていた。
 
 この町に古くから住む人ならば、誰もが所在を知っているその屋敷。大きな西洋風の建物で、窓には十字の格子がはまっているのが外からでも確認出来る。
 古いが劣化はしていなく、ほんの少しばかり生活感さえ滲み出ているせいで、残念ながら住民達の噂の対象や畏怖の存在にはならなかった。だから子供たちはそこにお化けが住んでいるなんて思うはずもなく、夏になるとあの窓から白いワンピースの女がこちらを見ているなんて怪談話の的になることも、残念ながら皆無だ。

 しかし、屋敷はその辺りでは有名だった。絵本から飛び出したような見た目の、女の子ならば一度は憧れを持ちそうな佇まい。いかにも英国風な雰囲気を醸し出すそれは、決してそのルックスのおかげで有名なのではない。

 その格子のはまった大きな窓から見える範囲だけでも十二分にわかるほど、屋敷全体に敷き詰められた大量の本、それに比例するように大きな本棚。外から見るだけで、その屋敷は本に占領されていることが一瞬でわかってしまうせいで、子どもを始めとする町の人々は屋敷をこう呼んでいるのだ。


図書館屋敷、と。


 兵藤 縁(ひょうどう ゆかり)の先祖は、とある界隈ではそれは有名な人物だった。
 政治や警察の裏を全て知り尽くし、その情報を駆使して濃淡様々な取引を行う裏社会の情報屋。後ろ暗いこともやってきたらしいと祖父は言うが、縁にとってはそんな情報は無意味といっても過言ではなかった。
 何故ならその情報屋は、今はもう廃業して久しい。曾祖父が最後の情報屋として活躍してからは、国に必要とされなくなってしまったらしい。後ろ暗いといえば後ろ暗い家業な上に、国にとっては目の上のたんこぶにしかなりえない存在だ。曾祖父もそれを十分理解した上で、そっと情報屋の看板を下ろしたという。

 よく祖父は曾祖父の仕事上の活躍や背筋さえも凍るような話、それからコミカルな失敗談を縁に聞かせてくるけれど、馬に念仏とはまさにこのことで、縁の記憶の端にさえも残らないくらい興味のないことばかりだった。

 そしてその情報屋の名残が、小高い丘に建つこの屋敷、通称図書館屋敷なのである。
 過去の曾祖父の仕事道具とも言える数々の記録や書籍、書類などが一度に保管されているせいで、近所からは図書館屋敷と呼ばれているのだ。

 今は駅からまっすぐ歩けば簡単にこの屋敷にたどり着いてしまうけれど、町が開拓されるまでは森の奥深くに眠るように佇んでいたらしい。
その方が趣があるというものだが、人が増えれば自然が減るのは仕方のないことで、必然的に重要な書類等が眠っていた屋敷がむき出しになるのも仕方のないことなのである。
 
 そうしてミステリアスな雰囲気の欠片もなくなってしまったこの屋敷の離れに、縁は一人で住んでいた。
 祖父や父は曾祖父が情報屋だった時のパイプを有効活用して、海外まで足を伸ばしそれはもう濃淡様々な仕事をしている。
 
 母と祖母は先月まで縁と一緒に図書館屋敷の離れで生活していたが、縁の就職が決まった瞬間お互いのパートナーの元へ飛んでいくと宣言し、その言葉通りに行動したのが約1ヶ月程前のことだ。元々楽観的な部分がとてもよく似ている母と祖母である。縁なら大丈夫よ。なんて軽い言葉を添えて、縁が頭を抱える程浮かれた空気を振りまきながら各々の愛する人の元へと文字通り消えていった。

 ぽつんと残ったのは、なんとか就活戦争を生き延び、よれよれのまま卒業式を終えた新社会人の縁だ。それと同時に、図書館屋敷の管理まで任されてしまった訳だ。不満が出ても何もおかしくない状況なのである。

しかしため息を吐いたって、父、祖父は勿論母も祖母も帰ってこない。図書館屋敷をぼんやりと見つめれば、それはもういつもと同じ表情で縁を見下ろしている。
 苛立ちの余りあの屋敷の中の資料や書籍でも売り払ってやる、と一言呟いてはみた。しかし以前、警察は必要な資料は全て厳重に管理すると言って、縁がとても小さいときに持っていってしまったのだから、あの中にあるのは曾祖父や祖父の趣味や嗜好、または過去の栄光ばかりが詰まった、もうこの日本には必要がないような文字たちばかりなのである。


そこで、縁は諦めた。この苛立ちをどうにかしてくれる人々は皆、既に日本からいない。ならば自分の力で蒸発させるしかないのだ。

縁は一度図書館屋敷を見た。その大きな窓にはまる十字の格子の中には、沈黙を保ったままの本たちが大人しく息を顰めている。

 その本たちの主は彼らを有効に扱いながら歴史の裏舞台で暗躍し、とうに命を落としたり海外に飛び立っているというのに、新たに主になったのはその本達に価値を見いだすことすら出来ない、既によれよれの新社会人。

 なんだか本に申し訳が立たないような気がしてきてしまったので、縁はほんの少しだけ、図書館屋敷に頭を下げてから離れに戻った。



 そうしためまぐるしい日々の中、そのめまぐるしく回る渦が加速し大渦になることは、縁の諦めのため息の中には含まれていなかったのである。