水の音だけが狭い一室に響く。
蛇口から勢いよく飛び出した水は洗面台に接触して、跳ね返る。
水の飛沫は弧を描いて辺りを濡らした。

――朝から気味の悪い顔(モノ)を見て吐き気がする。

気味の悪い顔。
其れは紛れもなく上総の笑顔の事を指す。
昔から気味が悪くて、嫌いだった。

殴りかかっても、
首を絞めても、
罵倒しても、
暴れても、
逆らっても、
眉一つ動かす事なく浮かぶ笑み。
内心は些とも笑んでなどいないくせに。

周囲の人間は皆あの奇妙な笑みに、霊にでも取り憑かれた様子で騙される。
あの男は『狐』なのだ。
人に化けた狐。

中身は根っからの『悪人』のくせに。
善人ぶって人を騙す。

手に掬った水を顔にかけると、嫌な気分が水飛沫と共に何処かへ消えていく。
そして、徐々に徐々に、頭が覚醒してくる。
目を瞑りながら、手探りでタオルを一枚掴んで其れで顔に付着した水を拭い取った。
甘い石鹸の香。
ほんの僅かに嫌気が差したが、一つ一つに苛立ちを募らせて爆発していればキリがない。
今は使い道のなくなった其れを適当なところへ投げ掛けると洗面所を抜け出した。

静まり返った廊下を抜けて、更なる静寂に包まれたリビングへと出る。
――ラッキー、居ない。
珍しくない光景。
上総は生徒会長を担っている。
だから休日学校へ行く事も珍しくない。
ひとりの空間は心地が良くて、嫌いじゃない。

しかし、それも徐々に終わりが近付いている。

『生徒会選挙』
もう直ぐ世代交代の時期に突入する。
大学受験で抜け目のない上総は余裕の顔を浮かべながらも勉強に取り組む。
従って、ひとりの空間で過ごす事が減るのは免れない事実である。

アルバイトをして、自立する手もない事はない。
家賃の安いアパートの一室を借り、其処で意地でもひとりの空間を作り、過ごす事は出来る。
――しかし、出来ない。

上総が其れを許さないから。

アイツの所為で出来ない事は癪に障る
でも逆らえない
逆らう事は許されない。
否、『逆らう』行為自体は覚悟さえあれば出来るのだ。

しかし其れを実行した後。
完膚無きまでに差し押さえられるのがオチであると俺は長い間戦い続けて近年漸く理解したのだ。

――自慢じゃないけれど、我慢する事は得意ではない。
其れでも俺が我慢をするのは、上総に対する反抗をすべて無くした時――俺は上総から『解放』されるのではないか、と僅かな光に賭けているからだ。
『反抗』がアイツの『欲』を掻き立てるのなら、俺は反抗を止める。

一時も早く、
俺はアイツから解放されたい。

其の希望の光のお陰で最近は随分マシになってきていると思う。
だから、アイツもそろそろ飽きてきたんじゃないかと伺っている。

「さっさと飽きろっつーの」

リビングのソファーに倒れ込む様に体を預けて、不機嫌に呟きを漏らした。