赤い靴

 3月に専門学校を卒業した後、8月の末まで、俺は英会話教室に通っていた。渡英するまでに少しでも言葉に慣れておきたかったのだ。
 もともと、英語は得意だった。いつか、留学したいと思っていたから、一生懸命勉強したのだ。
 でも、現実は厳しかった。ロンドンに着いた初日に、アパートへ行き、大家さんに挨拶をしたときに、俺は、自分の考えが甘かったことに気づいた。
 大矢さんが言っていることが、全く分からない。あれ?俺は、頭の上に、クエスチョンマークをたくさん浮かべながら、“Please speak slowly.”と言わなければならなかった。

 学校が始まるまで、少しでも英語に慣れようと、俺は、アパートの近くにあるバーへ毎日のように通った。ギネスの黒ビールを傾けながら、初対面の名前も知らない相手と単語だけで会話する日々。それでも、なんとか、俺の伝えたいことはだいたい伝わったし、相手の考えていることも分かって、「ああ、こんな風でも会話になるんだな」と目からうろこがおちる思いだった。
 毎晩のバー通いで、毎日が二日酔いだったが、それでも俺の英語力は格段に上昇していた。テレビを見ていてもラジオを聞いていても、その内容が分かるようになっていたのだ。
バーの中でも顔見知りが増えて、少しずつ、自分自身のことも話すようになった。彼らは俺に、なぜロンドンに来たのか、と尋ね、そして俺は、自分の夢を熱く語った。
 他人に対して、自分の思いとか、夢とかをこんな風に熱く語るのは、俺にとって初めてのことだった。日本にいた頃は、そうやって熱くなることが、なんだか恥ずかしくて、馬鹿にされるような気がして、仲良くなった友人に対しても、「俺は靴職人になりたいんだ!」と語ることをためらっていたし、俺の周りにいた人たちも、誰一人として、自分のことを熱く語る人はいなかった。でも、ここの人々は熱い。社会情勢や、環境問題に関することでも、普通に議論する。まるでそうすることが当たり前のように。たぶん俺は、ここロンドンのそういう熱に早くも浮かされていたのだろう。そして、その熱に浮かされている感覚が、とても気持ちよかった。バーの顔見知りたちは、俺の話を熱心に聞いてくれた。それも、俺が、ためらいを捨てた一因だったのかもしれない。