「何固まってるんですか、早くいきます」
「……わ、わかりました」
あの環流寺の安田さんが気を失い、命乞いをしてしまう程の化け物が、あそこにはいる。それをこの人はわかっているのだろうか。――少なくとも、なんの準備もしていない今、あそこに行って何になるというのだろうか。
灰川さんは、私達と一緒に事務所を出ると、鍵をかけ、特に何も持たずにそのまま同行する。途中、さすがにこれ以上迷惑はかけられないので柚子を自宅に戻し、私のマンションへと車を走らせる。灰川さんは後部座席で頬杖をつきながら窓の外を見つめている。その顔は何を考えているのかわからない、読み取りづらい表情をしている。
ただ、わかるのは、マンションに着き、あの重苦しい空気が漂う中でさえその表情を崩さないあたり、冷静なままでいるということだけだ。
「大丈夫か?」
「……うん」
「つらいかもしれませんが、来てもらいます」
彼の視線は私を向いてはいない。すでにその目標へと、温度の感じられない眼差しを向けている。――なぜだろう。……なぜ、この人はこの重々しい泥沼のような空気の中をたやすく進んでいけるのだろう。
「……行こう」
怜二に肩を借り、あの陰湿なエレベーターに乗り、廊下に出る。一歩一歩、足に何かが纏わりついているかのように、その重みは増す。それは、あの部屋に奴がいることを何よりも如実に物語っている。
「ここです。……ここに、います」
「そうですか。つらいですか?」
「はい……。今もここから逃げ出したいのを必死に抑えています」
「そうですか」
そう言うと、彼はなんの躊躇いも無しにドアノブに手をかけ、扉を開く。
――気のせいだろうか。部屋の中を見た彼の表情に、三日月のような笑みがこぼれたように感じたのは。
私はなんとか怜二にしがみつき、中へ入る灰川さんの後を追う。……だが、限界だった。中の空気を吸い込んだ瞬間、私は嘔吐し、重力が増したように、体を地面に叩きつけた。
眼球が勝手に不規則に動き回っている。
息ができない。
――意識が、遠のいていく。
怜二の叫ぶ声も、すぐに聞こえなくなった。
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