その声はまるで震えるように儚かった。

つい言葉を失った田中が目にしたのは、白くなるほどに強く握りしめられた彼女の拳だった。


「…もう、いいんです。
思い出せないってことは、今はまだその方がいいってことなんです。きっと」


「……山下」


田中はもはや何て言葉を掛けてよいのやら分からなかった。

山下絵里は少し顔を上げ、田中の方を見た。


「だから気にしないでください。田中君。
昨日はつい誰かに聞いて貰いたくなって言ってみただけですから」


表情だけはいつもと変わらずにいながら、彼女は堪えきれなくなったように動いた。

机の横に掛けていた鞄を引っ掴むように取ると、早足にその場から離れていく。


「……おい、待て」


とっさに田中が言えたのは呼び止める言葉だけ。

けれどその言葉も結局、意味を成さなかった。


山下絵里は彼の言葉を聞き届けることはなかった。

聞こえていながらも足を止めず、まるで何かから逃げるように教室を出て行ってしまった。



慌ただしい足音の後に、室内には相反する静寂が落ち、残された野郎二人はそれぞれに黙り込んだ。

田中は立ち上がった姿勢のまま、彼女に手を伸ばそうとして空を掻いた手を下ろした。

見ると、教師Aも「何が何やら」と言いたげなぽかんとした顔で教室の扉の方を見て固まっている。


田中はそんな教師Aの反応を眺めながら、苛立たしげに大きく息を吐いた。


山下絵里の去って行った机の上には、黒く分厚いノートと読みかけの本がそのまま置き去りにされていた。