「ジリリリリリリリリリリリリリリリ」
時計の針が5時半を指している。小春は耳障りな目ざまし時計の音で目覚めた。古びたカーテンを開けると、早朝の青空が見えた。雲はゆっくりと青空を横切ってゆく。小春は、窓を開けると大きく深呼吸をし、長く艶のある髪をお気に入りの青いゴムで二つに結った。
 
 今日は高校の入学式なのだ。すこし緊張するが、楽しみでもあった。
 下の階に行くと、オレンジ色のエプロン姿の母親の夏江がカツ丼を作っていた。四十一歳となった夏江は髪の毛に白髪が交じっているが、常に表情は明るく、快活な人柄だ。手際よくトンカツを白飯の上に載せてゆく。夏江は、つぶらな瞳で小春をちらっと見た。
「おはよう、小春」
「おはよう。今日は朝から豪華だね」
 カツが大きなお椀にたくさんのせられていた。その上に半生の卵がとろとろと載せられてゆく。貧乏な七瀬家では珍しい料理だ。
「そうよ。小春が念願の桜川高校に入学するからね。まさか、小春が合格できるなんてねえ。名門の桜川に。思いもよらなかったわ」
 県立の桜川高等学校は名門の高等学校で、難関国公立大学や公立大学を目指す県下で一番の進学校だ。小春は頭は悪いが、持ち前の根性でビリから二番目というラインで合格した。小春の入学の話題の時は、夏江は頬に皺を寄せながら嬉しそうに笑う。
小春は、父親の大樹を九歳の時に心臓発作で亡くしている。また、父親の生まれ変わりのように父が死んですぐに弟の聖悟が生まれた。周りには生まれ変わりなのではないかと言われた聖悟は見事に父親に似ている。
夏江は、スーパーのお惣菜を扱う仕事だし、安月給なので、親に迷惑をかけてはいけないと思い、県立の学校を選んだ。

「桜川高校に入ったなら、玉の輿を狙うのよ。名門高校には、頭が良くて金持ちの男がうじゃうじゃいるはず。お母さんにいい思いをさせてよね」
 夏江はそう言い、小春の肩をぱこーんと叩いた。地味に痛かった。冗談で言っているようで、夏江から、本音が飛び出したような気がして、小春は苦笑いした。

その後、小春が隣家の手足の不自由なおばあさんの愛犬(柴犬)を散歩させてから、桜川高校の制服を着て、小春は自転車をこいだ。
初めて着る制服は少しぶかぶかしていたが、チェックの藍色のスカートに青いリボン、水色のシャツで割と県内でも人気のある制服で、小春はついはにかんだ。
都市部にある桜川高校へとペダルをすいすいこぐ。心なしかスピードが出ていた気がする。
そのまま下り坂だった。自転車のスピードがどんどん加速してゆく。坂を下り終えたら、名門桜川だ。桜並木の桜が散っており、パラパラと美しいピンク色の花弁が頬に当たる。
幻想的な光景だった。目線の先には、ハラハラと舞い散る桜と目が冴えるほど美形の男の子。少しつりあがった楕円形の瞳に筋の通った鼻、ストレートの黒髪ショートカット、背が高く、スタイルのいい身体で、いかにも細マッチョといった身体付き。
桜川の生徒もちらほら見える中、小春はその男子から目が離せなかった。視線が合った。黒く濡れたような瞳に引き込まれてゆく。瞳が大きく見開かれてゆく少年。小春はブレーキをし忘れていた。ブレーキはすぐにはきかなかった。速度は落ちたものの、
ドスーンッ。自転車は少年にぶつかった。小春はその衝撃で地面に転がった。
『痛っ』小春は幸い擦り傷程度だった。同じく目前に倒れる少年。意識はあるようだ。小春の心には罪悪感がかなりあった。ギャラリーが周りに集まってくる。
『痛ぇ。どこ見てんだよ、この馬鹿』
低い落ち着いたような声色だった。楕円形の鋭く黒い瞳が、小春を睨む。小春は身振り手振りで慌てて言った。
『ほんとにごめんなさい。だっ、大丈夫ですか。怪我はありませんか』
『外傷はないが、体重が重い女がぶつかってきたんだから、身体が痛い』
一言多いなと、内心思いながらも少年の顔に見とれてしまう自分がいた。
『何ジロジロ見てんだよ』
不機嫌な顔の少年は、制服の砂をはらうと立ち上がった。小春は目を逸らす。
『すいません。あの、保健室に行きましょう』
『いい。大事に至ってない』
少年は冷たい口調でそう言うと、仏頂面で、長い足でスタスタと校門の方に歩いて行った。
『ちょっと、あんた何したか分かってるの?』
後ろから女の子の金切り声が聞こえた。振り向くと、十人ほどの桜川の制服を着た女の子達が腕組みをして、高圧的な態度で小春を睨みつけている。怖いと内心思った。そのグループのリーダーっぽいポニーテールの女子が口火をきった。
『あの方は、有名な資産家本城忍の一人息子、本城拓海様よ。そんな尊いお方を自転車でひくなんて考えられないわ。あの美しい顔に傷がついたら大変。これから、拓海様に危害が及ぶようだったら私達が許さない。気をつけなさい』
そう言うと、女性陣は校門の方へ去って行った。
 これが、本城拓海のファンというものなのだろうと小春は思った。あれだけの美形ならファンクラブが出来てもおかしくはない。
『小春、おはよう。くるの早いね』
振り向くと、小学校以来の親友の楓だった。長かった髪はさっぱりとしたショートカットになったが、笑ったときに出来るえくぼは、小学校の時から変わらない。楓は比較的、小春より裕福なので各駅停車の電車で登校するようだ。
『よく片道十キロの道を自転車で登校出来るね。家族のためとはいえ健気な小春』