普段、事務所の掃除は皐月に任しているので八代は慣れない作業に悪戦苦闘していた。
窓を開け、一旦棚からファイル等を退かす。
「やぁ、おはよう桜井君。」
八代が作業に没頭していると資料室のドアが開き、柔らかい声が聞こえた。相変わらず隈が酷い橘だ。
「おはようございます、副室長。今出勤ですか?」
少し眉を下げて頷く橘の片手には雑巾の入ったバケツ。八代が不思議そうにそれを見つめていると、橘は苦笑いしながら「研究長に指事されたんだ。」と呟く。一人では大変だろうと、立間は橘に手伝うよう指事を出したようだ。しかし、これでは橘が気の毒ではないか。
「大丈夫ですよ、ここは俺がやりますから。」
「いいんだ。いつものことだからね。」
「………いつものこと?」
「…僕、性格的に断れないから。こういうの良くあるんだよね。だから気にしないでいいよ。」
確かに、橘はいかにも優しそうな男性だ。立間は自分の立場も利用して、いつも橘に無理をさせているのか。
「って、ホントはそれだけじゃないんだけど…。」
橘は空になった棚を雑巾で拭き始める。だが、溜まりに溜まったホコリは真っ白な雑巾をあっという間に黒く汚した。
不謹慎だが、八代は何だかその雑巾が橘のように感じて居たたまれなくなる。彼の言葉の真意が気になり尋ねようとしたが、その前に彼の方から口を開いた。
「…桜井君に言うのもなんだけど…僕、七月一杯でここ辞めるんだ。」
「…え…、何でですか?」
「………えっと…、新人の君にはあんまり口外できるような事じゃないんだけど…。まぁ、研究長と色々あってさ。」
八代は自分の手を止め、橘の話に耳を傾ける。別段、悲しそうな顔をする訳でもなく眉を下げて苦笑いのまま話す橘。
「実はね、研究長は学会での新薬の発表を控えてるんだけど…それ、ホントは別の研究員のものなんだ。」
「!!……。」
「要するに、彼女は人の研究を盗んだんだ。盗まれた側は脅されて酷い扱いを受けてる。」
「……それで、副室長は何故…」
「僕も去年同じ目に合ったんだよ。僕も学会で発表しようとしていたデータを盗まれた。ホントはね、第一研究室室長は僕だったんだけど、データを盗まれた事に抗議したら降格さ。彼女は社長の愛人だから、何でもできちゃうんだ。」
