ボレロ - 第三楽章 -



頭上に青空が広がるスカイデッキに立ち、大きく深呼吸をした。

海風は心地よく、肌をほどよくなでていく。 

夏の盛りをすぎたとはいえ、まだ秋の気配には遠く、強い日差しに目を細めた。

降り注ぐ夏の日差しを避けるために、壁際に置かれたデッキチェアに腰を下ろした。



「土屋さんと奈緒子さん、やっぱり仲がよろしいのね」


「さぁ、どうだろう。

息子のことが原因で夫婦がもめたとは意外だったが、だいたい、あの二人が夫婦をしてるのが不思議だよ」


「初音のクルーズにご夫婦で参加したのは、結婚20周年の記念ですって」


「はぁ? 客室は別なのに? わけがわからん夫婦だな」


「そうかしら。花村様のように寄り添って金婚式を迎えられるご夫婦もいれば、そうでない方もいる。

幸せの形に決まりはないわ」


「俺は一緒がいい」


「私も」



珠貴の腰を引き寄せると、そうするのがあたりまえのように私の肩に頭を預けてきた。

肩の重みは心地よく、満ち足りた想いに包まれる。

宗……と呼ぶ声に肩を見下ろすと、少しだけ顎をあげ艶やかな目が私を見つめていた。

ゆっくり触れた唇は海風の香りがした。



「蒔絵さん、きれいだったわね」


「平岡の目じりが、だらしなく下がってた」


「蒔絵さんに初めてお会いした日を思い出していたの。覚えてる?」


「あぁ……」


「狩野さんの婚約をお祝いする会だったわね。プライベートのパーティーに、初めてあなたが誘ってくれた」


「せっかく誘ったのに、君は蒔絵さんを俺の彼女だと勘違いした。あのときはあわてたよ」


「覚えていたの?」


「忘れられないよ。あのとき、珠貴が俺を意識しているとわかったんだ。忘れるものか」


「あれからずいぶんたつわね……私たち、結婚したのよね」



確かめるように指輪を見つめる珠貴の左手に指を絡ませた。

ここにいたるまで平坦な道のりではなかったが、過ぎてみればすべては今日につながっている。

困難や難問に出会い苦しい経験もしたのに、互いの気持ちが揺らぐことはなかった。

珠貴と将来を歩く未来図は、私の中に早くから出来上がっていた。

これからは、未来図を現実のものに変えていくためにふたりで歩いていく。

いままでにない出来事にも遭遇するだろうが、それもまた楽しい時間になりそうだ。



「クルーズ、楽しかったわね」


「寄港地の観光も良かったが、たくさんの人に会えたのが良かったな。

土屋夫妻をのぞいては、というところだが」


「そう? 私はお目にかかれて良かったわ。土屋さんも奈緒子さんも楽しい方よ。またお会いしたいわ」


「俺は嫌だね。あんな皮肉屋と話すなんて、ストレスが増すだけだ。珠貴も、小山夫人は苦手だろう?」



小山夫人がよほど嫌な相手なのか、珠貴の眉が反り返った。

あからさまに毛嫌いする顔が面白くて、少しだけからかってみた。



「そうだ、小山さんから奥様をお茶会に誘ってもいいかと聞かれたよ。どうぞと答えておいたが」


「えっ、勝手に返事をしたの? やだっ、どうしてそんなこと言ったのよ。私が嫌がってるの知ってるでしょう」


「ははっ、冗談だ、断ったよ。ほら、珠貴も苦手な相手はいるだろう」


「あの方は特別よ。もぉ、宗の意地悪」



デッキチェアから体を乗り出し、私を責める口は文句を言いながらも、どこか甘えた口調だった。

仕事のときの引き締まった顔も好きだが、時々見せてくれる甘えた顔は独り占めしたくなる。

形だけの抵抗で胸をたたく手を片手で封じ、もう片方で珠貴の首元を引き寄せ額を合わせた。


旅行から戻れば日常が待っている。

さしあたっての問題は、まいをどうするかということ。

家をどうする? と口を開きかけたが珠貴の声が先だった。



「新しいお部屋のことだけど」


「えっ」


「なぁに?」


「家のことを先に言われて驚いた」


「ふふっ 以心伝心ね」


「うん」



こんなことさえ喜びにつながるいまは、どんな問題も難なく解決できそうだ。



「家か……迷うな。珠貴はどう思う?」


「近衛の大叔母さまからいただいたお話、とてもいいお話だと思うの」


「屋敷を譲り受けるって話か……屋敷の広さも充分だ、便利もいい。条件は申し分ないよ。 

大叔母さまはマンションに移るつもりらしいが、それが気にかかる」


「大叔母さまと、一緒に暮らすことはできないかしら」



珠貴の提案に正直驚いた。

驚きながら、これよりほかに良い答えはないとさえ思う。