ボレロ - 第三楽章 -



珠貴の無言はありがたいと思っていたのに、またひとり、私の気分を乱す人物がやってきた。

奈緒子先輩の手にもグラスが握られ、味わうというよりのどを潤すようにグラスの中身をぐっとあおった。



「近衛君、あなたは土屋が言った意味、わかっていないようね」


「どういうことですか」


「あの人はね、相手が誰であろうと、遠慮なく言いたいことを言えと言いたかったの」


「奈緒子先輩の言葉は、俺には意味不明ですね」


「彼、わざとあなたの感情を煽ったのよ。いつもそうだわ、知ってるでしょう?」


「えぇ、嫌と言うほど知っていますよ。土屋さんは俺に嫌味なことばかり言ってくる。

嫌われてるんでしょうね」


「嫌われてるですって? その反対よ、あなたは土屋に好かれてるわ」


「冗談でしょう」


「いいえ、冗談でもなんでもないわ。愛情があるから言うのよ。

もっとも、彼の愛情表現はかなり湾曲しているけれどね……

まぁ、それはいいわ、本題に戻りましょう。

近衛君は、相手を見て言葉を遠慮するでしょう。

これを言ってはいけない、こんなことを言うべきではないと、気持ちにブレーキをかける、

それも大事。でもね、遠慮しちゃいけないことのほうが多いはず。

特にあなたのような立場にいる人はね。あなただってわかってるでしょう」



確かにそうだ、私は言葉を選びすぎる。

土屋さん相手でも、気持ちのどこかにブレーキをかけている。

では、土屋さんはそれを私に気づかせるために毒づいてきたというのか、まさか……



「土屋に、それは悪いクセだと言えたんですもの、あと一押しだったわね。

でも、あの人は今日の近衛君に満足しているはずよ」


「それが本当なら面倒くさい人だな。もっと簡潔に言えばいいじゃないですか」


「それができないのが土屋なのよ」



奈緒子先輩は夫のあの人とをそこまで理解していながら、どうして別居などしているのだろう。

それこそ理解に苦しむというものだ。

ホールに目を向けると、マイクを持った土屋さんがパーティーを仕切っていた。

私に向けるような嫌味な口ではなく、実に軽妙な語り口調でゲストの心をつかんでいる。



「そんなに夫を理解しているのに、どうして別居なんかしてるんだろう……

あなた、今胸の中でそう思ってるでしょう」



ふふっと笑うことで、その通りですよと意思表示をすると、



「その笑顔があなたの武器ね。 笑ってるのに怖いわ」 



奈緒子先輩らしいほめ言葉をくれた。



「私たち、息子のことで意見がわかれたの」



それまで黙って聞いていた珠貴が 「まぁ」 と声を出した。

彼らに子どもがいたことに驚いたらしい。



「私ね、息子を19歳で産んだのよ。私も土屋も学生だった。

妊娠が分かって、彼、すぐにでも結婚しようと言ってくれたのよ。

迷いのない言葉だった、嬉しかったわ。

でも、私が一人娘だと言う理由で、父は結婚に大反対よ。

それでも子ども産むなとは言われなかった。

生まれた子どもを父の養子にすることと、出産後大学に復学することを条件に、父は私たちの結婚を認めたの。

土屋が家族をまともに養えるまで、私と息子は実家で暮らすことも条件の一つだったわ」


不思議なことに、土屋が養子になるという譲歩案はなかったわね。

土屋を、婿にはできても息子にはできないと思ったのかしら、父も頑固だからと言いながら、笑う顔に切なさをにじませている。

奈緒子先輩の話に珠貴は自分を重ねたのか、結婚を条件に子どもが養子となったと聞き複雑な顔をした。 

もしかしたら、自分も同じ道をたどったのかもしれないと思ったのだろう。

珠貴の心の中が読めるのは、私も同じ気持ちだったからだ。

結婚を認る条件に、生まれる子どもを養子に欲しいと言われるのではないか。

いつ珠貴の父親がそう言い出すのではないかと、ひそかに身構えていた。

けれど、そのような話は一切なく、珠貴を私に託してくれた。

奈緒子先輩の話を聞きながら、須藤の義父の胸中を思いやった。



「私たち週末家族だったの。それもつい3年前まで。

土屋に収入がなかったわけじゃないのよ。

孫を可愛がる実家の両親のために、彼がそうしてくれたの。

息子が大学に入ったら、家族で住むはずだったのに……

息子が一人暮らしを始めちゃったのよ。 

それも、親の援助はいらない、生活費は自分で稼ぐと言ってきかないの。

彼、やっと親らしいことができると楽しみにしていたのよ。

なのに、息子はさっさと親離れしちゃって。

それで親子で大喧嘩よ。

私は息子の味方だから土屋と意見がぶつかって、で、そのまま別居」


「そんなことがあったんですか」


「近衛君、あなたたちはこれからね。私たちのように別居なんてことにならないようにね」


「結婚したばかりですよ。別居なんて、縁起でもないこと言わないでくださいよ」


「あら、ホント。ふふっ、じゃぁ、いつまでもお幸せに」



披露宴のパーティーへ戻っていく奈緒子先輩の背中は、軽やかに弾んでいた。