ボレロ - 第三楽章 -



平岡が手にしているのは婚姻届だった。

証人の欄には、平岡の父親の名前と蒔絵さんの母親の名が記されている。

私と珠貴で二人のためにと用意したものだが、気の利いた言葉をかけられない私に代わって、
珠貴が二人へ話しかけた。



「平岡さん、蒔絵さん、私たちの気持ちです。お幸せになってくださいね」



口元が震える平岡へ、珠貴に助けられるかたちで言葉をつないだ。



「平岡、親父さんの了解が得られて良かったな」


「先輩、これは、いつ……」


「披露宴の夜、平岡社長が下船される前に、俺から話をさせてもらった。 

快く承知してくださったよ」


「……父の署名がありますね。先輩がわざわざ父を訪ねて?」


「あの、母にも会ってくださったんですか」



平岡と蒔絵さんが潤んだ目で私を見つめているが、そんな感謝の目で見られては返事に困る。

またも珠貴が私を助けてくれた。



「平岡さんのお父さまと蒔絵さんのお母さまに、それぞれお話をさせていただいて、おふたりの了解をいただいたので、浅見さんにお願いしました」


「……そうでしたか。ありがとうございました」



もしや、余計なことをしたと、彼らが機嫌を損なうのではないかとの心配もしていたが、そろって頭を下げてくれたのだから、私たちの好意は受け入れられたようだ。



「浅見さんにも世話になったんですね」


「平岡さんのお役に立てて良かったと、浅見さんも嬉しそうでしたよ」
  


珠貴の言葉にうなずきはしたが、さまざまな思いが去来しているのか、平岡はペンを握ったままだ。



「どうした、婚姻届の書き方がわからないのか? 

わからないなら教えるぞ、俺は経験者だからな」


「先輩だって何度も経験したわけじゃないでしょう。それくらいで威張らないでください」


「何度も経験してたまるか。ほら、ここに名前を書くんだよ。

婚姻後の姓ってのは……そうか、ふたりは同じ苗字か。 

ということは、蒔絵さんの氏名変更手続きは無用だな」


「まぁ、そうですけど、一応僕の姓ってことで」



握ったままのペンがようやく動き出した。

かたくなに二人の結婚を反対する平岡の母親の存在があるため、婚姻届の記入をためらう気持ちもわかるが、なんとか背中を押したいと思った。

重い気持ちを動かすために軽口をたたいて、気を楽にさせてやりたい。



「間違えるなよ、ここに平岡の名前だ」


「わかってます、先輩静かにしてください。気が散るじゃないですか」



あまりにもかまいすぎて最後には怒られてしまったが、それも計算のうちだ。

ほどなく二人の署名がすみ、婚姻届はできあがった。



「お二人の記念の日に立ち会うことができて……良かった」


「あぁ、そうだな」



おめでとう、と珠貴とそろって声をかける。

神妙な顔の平岡と、まだ声が震えたままの蒔絵さんから、「ありがとうございます」 と礼が伝えられた。







一対になったランプをともすと、寝室は柔らかな灯りに包まれた。

平岡と蒔絵さんが贈ってくれたランプだが、彼らも同じ物を持っている。

ふたりは明日入籍する。



「明日がランプの点灯式ですって、蒔絵さん、嬉しそうだったわ」


「そうか、良かった」



ランプに照らされた頬に唇をおき、首に腕を絡める。

わずかにくすぐったそうにしたが、誘いに応じるように唇を寄せてきた。



「船の旅が楽しみね」


「あと一週間か」


「忙しくなりそうね。明日は……」



口をふさぎ、珠貴の言葉を吸い取った。

話の続きは明日にしよう……

素早く伝えて再び唇を重ねると、そうね、というように珠貴の手が私の腰にまわされた。

ほのかな灯りのもと、密やかに二人の夜をはじめた。