ボレロ - 第三楽章 -



くくっ……と最初に笑い出したのは沢渡さんで、「笑っちゃダメよ」 と言いながら、美那子さんも口元を押さえている。



「しかし、あそこで言いますか。

道端の出会いは人様に聞かせられないなんて、宗一郎さんも相当人が悪いな。 

平岡君の母上は、自分が言ったことを全部聞かれてたと知って、いまごろ青くなったり赤くなったりだろうね」


「宗一郎さん、最高!」


「お褒めに預かり光栄です」



恭しく頭を下げた宗を見て、沢渡さんと美那子さんは笑いが止まらなくなったようだが、あまりにも大胆な宗の言動を目の当たりにして、私はまだ落ち着かない。

あのような振る舞いは、彼だからできることでもあるのだが……



「蒔絵さん、大丈夫? 大変だったわね」


「いえ……おふたりにご迷惑をおかけいたしました」


「迷惑なんかじゃないわ。あれだけのことを言われながら、よく我慢したわ」


「彼のお母さまですから……何を言われても受け止めようと決めていました。

でも、少し言い返してしまいました。我慢が足りませんね」



たちまち目から涙が溢れてきた。

彼女の気持ちがいじらしくて、肩を震わせる体を抱いた。



「聞きしに勝る母親だな。人の意見など受け入れるつもりは微塵もない。あれがあの人の常識なんだろう」


「とんだ常識ですね。平岡君が家を飛び出したのもわかるな」


「自分のものさしでしか相手を測ることのできない人は多いですね。 

平岡のお袋さんのような人はどこにでもいますよ。だが、蒔絵さんへの対応はいただけないな。

しかし、アイツはどこに行ったんだ?」



蒔絵さんがこんな目になっているのに、平岡はどこに行ったのかと、宗は苛立っている。

抑えていた怒りが、いまになってふつふつと湧き上がってきたのだろう。



「お袋さんが紹介した女性と話してますよ。その間に蒔絵さんを呼び出すなんて、それこそ計算ずくだ。

狩野君が平岡君を呼びに行っています。

狩野君なら、相手の女性から平岡君を引き離すこともできるでしょう。

なんといっても、彼は近衛宗一郎氏の親友ですからね、相手も嫌とはいえないはずだ」



珍しく嫌味な表現をしながら、沢渡さんは苦虫をつぶしたような顔を見せた。




「宗、あんなこと言って大丈夫なの?」


「あんなこと? あぁ、平岡に話をすると言ったことか。

もちろん話すよ。蒔絵さんと早く結婚しろと、そう言うつもりだ」



先ほどまでの尖った声は消え、いつもの顔を取り戻している。

「待って、蒔絵さんへ暴言は許せないわ。きちんと話し合いをして、それから……」 と、私が懸命に話すが、宗は笑顔のままうなずくだけだ。

そこへ平岡さんが血相を変えて駆け込んできた。

私から蒔絵さんを引き取り、その腕に抱え込んだ。



「先輩……母が失礼をしました。蒔絵にこんなことをするなんて……」



怒りで震えた声は今にも爆発しそうだ。

母と話をしてきますと意気込む平岡さんを宗が止めた。



「平岡、今夜はやめておけ。

せっかくのナイトクルーズだ、お袋さんの顔を見るより、彼女の顔を見たほうがいいだろう?」


「わっ、宗一郎さん、名言だわ」



美那子さんがパチパチと拍手をしながら、夫である沢渡さんをじっと見た。



「美那子さんも僕の顔を見たいの?」


「あら、反対よ。私を見てよ」



沢渡夫妻の掛け合いを楽しそうに横目で見ながら、宗は平岡さんに顔を向けた。

その落ち着きといったら……

どうしてあのような場面に遭遇したあとで、こうも落ち着いていられるのだろう。



「蒔絵さんを連れて部屋に帰れ。お袋さんに見つかるなよ」


「先輩……」


「明日の朝食は、部屋に運んでもらうよう頼んでおく」


「狩野先輩も、ありがとうございます」 



宗と狩野さんに礼を言う平岡さんの顔は、涙をじっとこらえているようだ。

彼を和ませようと宗が言葉をかけると、目を潤ませながらも顔がほころんできた。



「一日中部屋に篭ってもいいぞ」


「そうさせてもらいます。今夜は、彼女の顔を見ながら過ごします」


「言うじゃないか」


「そうしろと言ったのは、先輩ですよ」



いつもの平岡さんと宗のやり取りが聞こえてきて、そこにいた誰も安堵し、平岡さんと蒔絵さんが去ったあとも、和んだ空気が漂っていた。



「それにしても、あのお母さまには腹が立ったわね。

宗一郎さん、よく冷静に対応なさったわ。感心しちゃった」


「そこが彼の怖いところだ。

宗一郎君の笑顔は、鋼鉄の微笑みと呼ばれるそうだが、さっきの笑みには背中が凍りついた。

あの母親も気合負けしていたね」



ふたりの話を聞きながら、宗が不敵な笑みを浮かべる。

彼の笑顔は大好きだけれど、この笑みだけは向けられたくないと思った。