ボレロ - 第三楽章 -



微かな水音に目が覚めた。

寝返りをうち、先ほどまで珠貴がいた場所へ手をのばすと、シーツに仄かなぬくもりが残っていた。

私を起こさぬようベッドから抜け出したようだ。

疲れが残る体は正直なもので、機内の睡眠では足りず滑らかな肌に包まれながら寝入ってしまったらしい。


真夜中すぎまで続いた接待に辟易したが、辛抱強く酒の席に付き合った結果は満足のいくものだった。

いまだに宴席を通過しなければ、より良い関係が成り立たないと信じている人は多い。

酒の力で本心を語る場が必要であることは認めるが、アルコールが苦手な私には、飲み交わすこと自体が苦痛をともなう。

信頼関係を深めたであろう宴席から開放され、ホテルに戻ったのは明け方近くで、疲れを引きずりながらベッドにもぐりこんだ。 

そのまま昼まで寝ていたい衝動を振り払い、寝不足のまま朝一番の飛行機に乗り込んだのは、
夕方の会議予定を動かせないためだった。


私一人が欠席したところで議論の結末に変わりはないと思うが、立場上顔を出さないわけにはいかない。

空港から 『榊ホテル東京』 に直行し、珠貴とランチタイムを過ごし、部屋で夕方まで仮眠をとるつもりだった。

ところが、温かい彼女の腕に抱かれたことで、私の予定は変更を余儀なくされた。

疲れていたはずの体は、睡眠より彼女の肌に触れることを選んだのだった。

体はさらに疲労を増したが、張り詰め強張っていた体はほどよく緩和し、鋭くとがった感情は
なだらかになった。

丸みを帯びた肌が心地良い眠りを誘い、質の良い睡眠をもたらしてくれた。


冬の日差しが差し込む部屋で秘めやかな名残りに浸っていると、またまどろんできたが珠貴の気配に目を開けた。

シャワーのあとの湿り気を放ちながらベッドの縁に腰掛けると、私の頬に手をおいた。



「まだ眠そうね。コーヒーを淹れましょうか?」


「もらおうかな。そのまえにシャワーを浴びてくるよ」



頬においた手が私の手をつかみ勢いよく引いた。

起き上がる手助けをされ、ふらつく頭を抱えながらベッドから降り、手を引かれるまま部屋を歩く。

面倒見の良い手でシャワールームへ押し込まれた。





髪を拭きながらテーブルに着くと、見計らったようにコーヒーが運ばれてきた。

部屋には手軽に入れられる物も用意されているが、これはドリップで淹れたものだ。

珠貴が丁寧に淹れてくれたコーヒーを手に香りを楽しみ味を楽しむうちに、体のすべてが起動しはじめた。



「宮野さんが喜んでいたと伝えてほしいと言っていた。

渡したのはバレンタインのチョコだったのか?」


「お誕生日よ。4年に一回ですから、どうしても今日お渡ししたくて」


「4年に一回ってことは、2月29日の生まれか」


「印象的でしょう。だから忘れないの」


「静夏も産むなら今日だな、みんな忘れないぞ」


「予定日を一週間も過ぎているんですってね。知弘さんも仕事が手につかないみたい」


「知弘さんでもそうなるんだな。何事にも冷静に対応する人だと思ってたよ」


「自分が産むわけじゃないから、余計に落ち着かないんですって。待つのも大変ね」



待つのも大変か……

それでも待てと言われたのだから、自分たちは時が来るのをじっと待つしかない。


『今はまだ時期ではありません。辛抱強く待つことです』


小玉さんの言葉が、また私に語りかける。

折に触れ蘇る言葉は、一言一句間違うことなく頭の中で繰り返されるのだった。

小玉さんの 「言の葉」 は、予言でもなく神のお告げでもないそうだ。

相手の顔を見て、頭に浮かんだ場面を言葉にしているだけですよと言っていたが、その場に実際立ち会うと、実に不思議な光景だった。