その画面は、もう黒くなっていた。手についたメロンソーダの水を、服で拭き取り、携帯を明るくさせる。そのまま、画面をタッチし、あるページを開く。鞄からは、ペンとメモ帳を取り出した。荒々しく一枚を切り取り、ページを見ながら、何かを書き込んでいく。書きながらただひたすらに、この気持ちを忘れたくないと思った。この感覚を、失なうものか。
すぐに書き終わり、携帯の画面は再び黒くなる。道香が感じていた携帯への虚しさは、もうない。
一息をついて、メロンソーダを再び吸い上げる。アイスは程よく溶け、さっきより甘い。その甘さは、高まる鼓動を落ち着けられない。
自分の書いたメモをちらりと目線にいれ、ふと思った。
「……これ、読めないよね。」
急いで書きすぎて、殴り書きのような字体になってしまった。これでは、彼女の字の特徴を分かってる人にしか、何を書いているか分からない。そんなの、何の意味もない。
彼女の抑えられない気持ちが空回りしていく。
こんなのならこんな気持ちッ――。
そう苛立ちが感情をしめたとき、席を立ち上がる音が聞こえた。
バッと振り返れば、案の定彼が立ち上がり、扉の方へ歩いていく。
「待って!!」

 *

彼女は、自分の声が聞こえてきたことに驚いてしまった。そのくらい、いつの間にか口にしていた言葉。そして、耳がキーンとなるほどの音量。自分はどれだけ必死なのだろうと、道香は思わず苦笑した。
その声に、彼は肩を震わせて驚いた。そのまま、彼女の座るテーブルに近付いてくる。
「えっ、えっ」
「自分で呼び止めといて、近づいたらそれかい?」
2つの黒い目が、愉快そうに光る。不思議と嫌な気はしなかった。
「というか僕は、どちらにせよこちらに来る予定だったんだけどね。」
その言葉に、思わずドキッとした。
「なん、で?」
そのせいか、言葉が、うまく紡げない。
「なんでって、そうだなぁ……。」
分からないとでも言いたげな彼の細い手から、白い紙がテーブルに流れた。
「一目惚れなんて、いや、人にときめくことなんて、初めだからかな。」
白い紙。しかし、真っ白ではない。そこには、整った、綺麗な文字が並んでいる。道香はそれを手に取り、書いている文字を読んだ。
「……わたるなかえいとも?」
「渡仲永友(となかなかと)。というか、僕の恥ずかしい言葉は無視?」
「い、いえ……。」
すみませんと謝るも、いやこちらこそと、何故か彼も謝った。
「わ、私も初めてなんです。」
「そっか。なら、良かった。」
彼はホッと胸を撫で下ろす。同時に、徐々に顔が赤くなる。既に道香は真っ赤であった。
「これ、永友さんの電話とメルアドですか?」
「うん。……まぁ、気が向いたら、よろしく。」
そう吐き捨てるように言って、彼は走り去った。扉を強引に開け、カランカランという音だけがそこに残る。
「若いって、いいですねぇ。」
カウンターからは、そう溢された。
「はい……。」
そう返すしかなかった。道香の方は、名前すら伝えていない。
しかし、彼女は去り際の彼の笑顔を見逃さなかった。透明のガラス越しにも伝わる彼。
言葉や声、それらすべてをひっくり返して、彼女の胸ははりさけそうなくらいときめいていた。
道香の手に握りしめられた紙だけが、彼へと繋がる道しるべである。これが危険なことかもしれないと、考える余地もなかった。ただ、冷房が効いているはずなのに火照っている頬だけが根拠のないなにか。先ほど初めて感じたときめきを隠す術を知らない。
それでも良かった。
退屈しない、むしろ暑すぎるほどの夏が始まる予感。
犠牲は、紙一枚とわずかなインクであった。
[fin]