浄福寺通り、今出川上(あが)る。

…といってもピンと来ないかも分からないが、それが翔一郎の引っ越してきた界隈である。

姓は饗庭(あいば)。

俗に、

「西陣」

と呼ばれるこのエリアはもともと機屋や織元があって、東に同志社と京大、西に立命館があるという場所柄、学生や若手の芸術家たちが暮らしている。

翔一郎が出入りする写真家の事務所がある烏丸御池からは遠かった。

が。

翔一郎の住む二階からは、遠くに比叡の山並みを望むことができた。



黄色のリトルカブは、洛中を走る。

道が細く、それでいて距離がそこそこある京都の町をチマチマ走るには、

(やっぱり、下手な自動車より小回り利くなあ)

と翔一郎が感嘆するほど、何かと都合が良い。

まだ大枝の芸術大学に通っていた頃から、そのスタイルで翔一郎は生きている。

(これが彦根では、そう行かんのかも知らんけど)

ついでながら、翔一郎の実家がある彦根は昔ながらの城下町で、しかし京都ほどの人口はない。

時折、

(たまには琵琶湖も行かなあかんな)

というぐらいで、帰ろうと思えば、一日あればすぐ帰れる。

ホームシックなぞ起きようもない。



翔一郎のリトルカブには、大きなジュラルミンの箱がついていた。

中にはカメラや機材が積んである。

フリーのカメラマンという仕事柄、京都という地は素材の宝庫で、時期が合うと高桐院の楓や、足を伸ばして栗尾峠を越えて、常照皇寺まで桜を撮りに遠乗りする日もあった。

が。

(こんな写真撮影して何がおもろいんやろか)

という写真も、時には撮らざるを得ないこともある。

中でもいちばん参ったのは成人雑誌の撮影で、制服に扮装した女の子が街中でスカートをたくし上げ、

「あなたの下着見せてください」

といったコンセプトで、下着をあらわにしているという写真を撮らなければならなかったことがあって、

「あんなあられもないもん、よう撮らすなあ」

という声が背後から聞こえてくるなか、翔一郎は撮らされたことがあった。

あれはさすがに嫌だったらしく翔一郎は二度と受けなかったが、

「露骨すぎて、えげつなかった」

と他日、こぼしている。



人手が足らんから手伝ってくれんやろか──と、アシスタントの時代から世話になっていた陣内一誠という写真家から声がかかったのは、まだ蒸し暑い地蔵盆が過ぎたばかりの頃である。

いつものように翔一郎が黄色のリトルカブで烏丸御池まで来ると、

「呼び出して悪いな」

「いやいや、気にせんといてください」

と応接室で麦茶と高そうな干菓子を出した。

「お、亀屋ですか?」

「こないだお持たせでもらったんや」

そいでやな饗庭、と一誠は話を切り出した。

「おまえ、風景で穴場知ってるやろ」

「はい」

前に翔一郎の撮りためた写真を、一誠は見たことがある。

「今度、制服コレクションの企画で写真を俺が撮ることになったんやが、どうも穴場でないとしっくり来んのや」

制服コレクション、というのは名所旧跡を背景に制服の女の子を撮影して、観光PRにしよう──という、少し変わったプロジェクトのことである。

「それで試しにCG使って金閣寺や清水寺で合わせてみたんやが、何か作りもんみたいであかんのや」

ほんで饗庭ならえぇ撮影のスポット知っとるかも分からんから声かけた、というのが一誠の話の要約である。

「うーん」

翔一郎は考え込んだ。

通常、プロの写真家どうしライバルであり、撮影場所を教えるということはやらないものである。

が。

いわば師匠でもある一誠の頼みでは断り切れない面もあった。

「…梨木神社はどうです?」

「あ」

一誠はハッとした。

梨木神社、というのは参道が萩の名所でもある。

「紅葉なら高台寺か南禅寺なんでしょうけど、紅葉は早いですし」

そんなら萩かな、と翔一郎はいった。

「さすがはわが後輩」

「…たんまり後で、情報料いただきまっせ」

翔一郎らしいささやかな抵抗が、そこにはあったらしい。



撮影の日。

夜来の雨は昼に上がって、咲き始めの萩の枝が露を含んで、キラキラと光っている。

「撮影許可は大丈夫なんかいな?」

「確認したらOKやって、昨日いうてました」

三脚や照明といった機材が次々、ワゴン車から下ろされてゆく。

翔一郎は一応ヘルプとして入ったが、アシスタントの後輩たちからは、

「プロの饗庭さん働かしたら僕ら殺されますがな」

といわれてしまった。

これには、茫然とするしかない。

仕方なく翔一郎は広小路を荒神口まで出、鴨川の河畔へと歩いた。

鴨川の流れは雨のあとだけに少し強い。

河畔へ、出た。

そのとき、である。

ドン、と何かがぶつかった。

見ると制服姿の高校生ぐらいの女の子が座り込んでいる。

「…助けて」

「?!」

翔一郎は事態が飲み込めずにいる。

「変態オヤジに追われてるの」

女の子は上目遣いになった。

鈍い翔一郎も咄嗟に何らかの危機であることだけは分かったようで、

「わかった」

というと、女の子の手を引っ掴んで──なぜそうしたかわからないが──荒神口を河原町通へ折れ、芸術会館の角を広小路へ曲がった。

梨木神社の前まで戻ってきた。

すると。

黄色のリトルカブに積んだジュラルミンからフィルムの入ってない小さなカメラと、プレスと書かれた腕章を渡した。

「名前は?」

「…エマ。葛城エマ」

「撮る振りでいいから、ついてきーや」

そういうと若いスタッフを捕まえ、

「ちょっと知り合いの子でカメラに興味あるのが見学したいっていうから」

といい、エマを撮影の現場に付き合わせる一芝居を打ったのである。



撮影は意外なほどすんなり運んだ。

翔一郎とエマは、一誠が独り盛り上がりながらモデルの女の子の気持ちを乗せるように撮影してゆく様子を見ていたが、

(なんか、ちゃうなあ)

という違和感だけは、翔一郎は拭い去れないままでいる。

一通り撮影が進んできた頃…。

見回すとエマがいない。

少し慌てた様子の翔一郎は境内を探した。

すると。

リトルカブのジュラルミンから翔一郎の撮り溜めした写真帳を勝手に出して見ていたのである。

エマが気付いた。

「あ、…ゴメン」

「いや、減るもんやないし見ててえぇよ」

人間は撮らないんだ?──とエマは訊いた。

「花とか風景とかの方が、ファインダー覗いて構えてても気楽やね」

「…被写体が私だったら、どう撮る?」

「じゃ、ポラ撮ってみる?」

そういうと、ジュラルミンからポラロイドカメラを出した。

「ポラ撮り」

という下書きのような作業に使われている。

「無理には笑わなくていいから」

生垣の青葉をバックに、エマはカメラに構えた。

よく見るとエマは色白で、髪もナチュラルな茶、目の色は緑がかっている。

(こんな美少女が世の中おるんやな)

カメラの性能に翔一郎は初めて限界を感じた。

が。

「あっかんべー」

すぐに舌を出し、いわゆるアカンベエをした。

「なんや、ベッカッコーかいな」

エマが笑ったのを翔一郎は逃さず写した。

仕上がりは意外なほど良く出来ている。

写った写真をエマに渡すと、

「ありがと」

エマはしばらく写真を眺めてから、胸のポケットにしまい、

「ね、写真もっと見たい」

「えっ…部屋に置いてあるんやけど」

翔一郎は戸惑った。

「じゃあ、翔一郎の部屋に連れてって」

エマの言葉に翔一郎は驚くばかりで、

「なんで名前知っとんねん」

「名札に書いてあるよ。饗庭翔一郎って」

そういえば翔一郎は、ブルゾンに名札をつけてある。

「ちょっと待っててや」

リトルカブのジュラルミンを外すと下からはシートが出てきた。

ジュラルミンをフロントのキャリアに縛り付けると、タンデム仕様に早変わりしたのである。

シートを拭き、

「後に乗ってや」

とエマを座らせると、撮影が終わったのを見届けてから西陣へ戻るのであった。



正式に西陣とは上京区でも堀川通以西、一条通以北を指す。

部屋は京町家を借りていた。

西陣にしては安い家賃と、かつて糸屋であった風情が気に入って、借りた物件である。

中は改装され、シェアリングハウスになっていた。

翔一郎の他には漫画のワンピースが大好きなドイツ人の女子の留学生と、東寺の弘法市に毎回ハンドメイドのアクセサリーを売りに出している、スフィンクスみたいにソバージュの広がった女流の造形作家が住んでいる。

「気にせんで入って大丈夫やで」

通り土間の左手の急な階段を昇ると、廊下の右に南京錠のついた網代戸がある。

「引っ越して日が浅いからワタワタやけど」

網代戸を開けると、まだ雑然とした部屋ながら、大きく引き伸ばされた写真が何枚も、額装されてかけられてあった。

「わぁー…すごい」

中でもエマの目を引いたのは、カラフルに咲き誇る椿の巨樹の写真である。

「それはね、椿寺」

椿寺、というのは北野の西大路一条にあった地蔵院のことで、ついでながら花は五色八重散椿といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に加藤清正がもたらした、とされている。

「京都ってうちら写真屋にとっては、素材の山やからねえ」

「そっかぁ」

エマは目をキラキラさせながら、椿寺の写真を見入っている。

「あ、時分どきやし晩ご飯食べてけや。レトルトのカレーやけどな」

男の独り暮らしやし、エマちゃんの親御さんにも迷惑かけたらあかんから──といい、鍋を火にかけ始めた。

「大丈夫だよ、親いないもん」

「…そうなん?」

「じゃ、独り暮らし?」

「ううん、今は施設にいるよ」

カレーが出来た。

「施設?」

「うん。お城のそばにあるんだ」

あとから聞いたが、二条城の近くらしい。

カレーを食べながら、エマはざっくりした過去を語り始めた。

「気づいてると思うけど、生まれは関西じゃないんだよね」

もともとは東京生まれで今は京都の通信制の高校に通学していること、息苦しくなったら高校の友達の家に外泊したりしていること──。

「で、翔一郎の地元は?」

「滋賀の彦根」

今やったら、ひこにゃんの地元って言うたら分かるかな…といい、

「普通に大学出て、今はカメラ屋」

まだ独立したばっかりやけども、というと玉葱を水で流し込んだ。

「…玉葱、嫌いなんだ?」

「臭いがあかん」

「でもさっき、飲み込まなかった?」

「そら女の子の前でみっともない真似できんやろ」

エマはフフフ、と笑い出した。

「男の人って可愛いな」

「いい大人をからかったらあかんで」

エマは舌をペロッっと出し、

「ね」

「ん?」

「…エッチしよっか?」

「はぁ?!」

翔一郎はジャガイモがのどに詰まりそうになった。

「彼女…いるの?」

エマが顔を覗き込んだ。

「おらんけどやなあ…でも初対面やんか」

「…私のことキライ?」

翔一郎は顔が真っ赤になっている。

「キライも何も、まだようエマちゃんのこと分からんし」

「分からないからエッチで確かめるんだよ」

早く食べて、と促されるまま翔一郎は、最後の肉を口に放り込んだ。

「はい、おりこうさん」

口許をティッシュで拭くとエマはテーブルを乗り越えてキスをしてきた。

まだスパイスの香りがする。

その香りがする舌が、歯を伝って翔一郎を冒してくる。

(どういうこっちゃねん)

と思ったが、遂にはエマのペースに乗せられ、最後は翔一郎が果ててしまうまで行為が進んでしまったのであった。