月が、改まった。

六月である。

エマは、愛が落ち込んでいやしないかが気がかりであった。

翔一郎が、

「何せ、事態が事態やからなぁ」

というのも、無理からぬ話であろう。

だが。

初七日が済んだあと、快気祝を持って愛が元気そうな顔で訪ねてきたのを、エマが出迎えた折には、

(どうなるかと思った)

と二人揃って安堵したのであった。



梅雨に入ってしばらくした頃、早咲きの紫陽花が咲いたからというので、エマは翔一郎に聞いた醍醐の金剛王院という寺へ、愛を誘って、手作りのツナサンドをかごに詰め出掛けた。

バスを降りた。

別名を一言寺という古刹である。

ゆるやかな坂と石段を登り切って振り返ると、晴れていれば左に宇治、右に山科と麓を一望できる。

淡いもやが、かかっていた。

ぼんやり霧雨に煙る街は、晴れていれば見えるであろう電線やアンテナを隠してしまい、まるで古い時代にでも時空を飛び越したような感覚にさえなる。

「それにしても、翔くんよくこんなところ知ってるよねぇ」

カメラマンという仕事柄、いろいろな穴場には詳しいが、ここは誰もいないのである。

境内の紫陽花は早咲きの小さめの株が咲き始め、淡い水色や紫の手まり型をした花が、霧雨に濡れてしっとりと咲いていた。

「紫陽花って鎌倉のイメージだけど、京都のも綺麗だよね」

エマはいった。

「紫陽花はさ、うちらに何があっても、毎年ちゃんと梅雨が来たら、きっと咲くんだろうね」

「だろうね」

愛の問いにエマは明るく答えた。

出来るだけ明るく答えることが、愛の気持ちを癒すかも知れないと感じたのかも分からない。



数日後。

一誠とあさ美の挙式が延期になった。

「なかなか場所が決まらない」

というのが理由である。

が。

さすがにこの時期の式は愛を刺激してしまう…と、エマは思ったらしい。

むしろ。

変に愛が塞ぎ込んだりしておらず、今までとあんまり変わらない態度で過ごしていることのほうが、エマには懸案であった。

押し隠しているように映ったのである。

それを知ってか知らずか翔一郎は、

「案外これが人間万事、塞翁が馬ってことになるかも分からんで」

と何やら予言めいたことをにべもなくいったので、

「さすがにそれはないでしょ」

エマは突っ込んだ。

すると、

「おれには、愛ちゃんがそう簡単にドロップアウトするようには見えんのや」

といった。

そこはエマも同感で、

(さすがに後を追うようなことはないと思うけど)

ただ、口数は減ったように思われた。



祇園祭の季節を迎えた京都では、山車(やま)や山鉾(ほこ)が立つと、厄除けの粽売りの謳い文句を子供が歌う声が聞こえてくる。


 ♪常は出ません
  今晩限りの信心の
  おん方さまは
  つけてお帰りなされましょ
  難よけ火除けのお守りを
  つけてお帰りなされましょ


というものである。

エマと翔一郎は結婚記念日が宵山の七月十六日で、この粽売りの唄は、二人の結婚記念日を知らせてくれる唄でもある。

が。

この年は違う。

はからずも薫の四十九日が、七月十六日にあたっていたのである。

「なんちゅうめぐり合わせや」

翔一郎は苦笑いを浮かべたが、こればかりはずらしようがない。

織部寺と呼ばれる興聖寺の裏手にある、京町家の外装をしたケーキ屋で毎年買っているイチゴのケーキを、このときばかりは自粛として、チョコレートのケーキに変えざるを得なかった。

もっとも、

「イチゴのも美味しいけど、チョコのも美味しいね」

とエマが喜んでくれたのが、翔一郎には救いであった。



八月になってすぐの蒸し暑い日、西陣に愛が訪ねてきた。

翔一郎はラジオの収録で、この日はいない。

「どうしたの急に?」

「何か最近、具合がよくなくて…」

「大丈夫?」

「多分ね、ストレスじゃないかなって」

だからしばらく湯治ついでに温泉地とか行こうかなと思って、と愛はいった。

「そのついでにひさびさに、福島に帰ってみようかなって」

「…そっかあ」

あてならある、と愛はいい、

「地元から少し離れてるんだけど、会津にいい湯治場があるって教わったから、そこ行こうかなって」

「そうなんだ…愛は田舎があって羨ましいな」

あたし渋谷生まれだからさ、とエマは笑ってみせた。

「…エマちゃんって虚勢を張ると、左の眉が少し上がるよね」

「えっ…?」

「私は気づいてたよ」

愛にはかなわないな、とエマは笑顔で舌を小さく出してみせた。

会津へ愛が向かったのは、その数日後の話である。



薫の新盆と五山の送り火が過ぎた頃、

「京都で挙式をすることになった」

と、東京へ引っ越したばかりの一誠から、メールが届いた。

あさ美と一誠があちこち調べ上げた末に選んだ会場は、なんと上賀茂神社である。

──あさ美にウェディングドレスを着せてあげたい。

という気遣いを一誠は示していたのだが、

「せっかく京都で式を挙げるんだから、京都らしいのがいい」

というあさ美の一言で、上賀茂神社と決まったらしい。

「ウェディングドレス着んでもえぇのか?」

「もうグラビアで何回も着てるし」

何だか仕事みたいに感じるから嫌だ、とあさ美はいうのである。

「それに上賀茂神社って、確か世界遺産でしょ?」

そんな凄い場所で結婚式なんて、滅多に出来ないんだよ──あさ美はいった。

そうして薫の件もあって延期していた挙式の日取りもようやく定まって、

「これで準備万端や」

とようやく、落ち着きを取り戻したのであった。

あとから聞いてみると、

「東京で挙式するつもりやったんやが、あさ美のアイドル時代の追っかけが殺害予告なんぞ送り付けてきよってやなぁ」

それで所轄の警察署の勧めもあって、京都で挙式することになったらしい。

「アイドルが嫁になるっちゅうのは、あっちゃこっちゃ気つかわなならんから、そらぁえらい難儀ですなぁ」

翔一郎の一言には、一誠も笑うしかない。

エマはその口ぶりが可笑しかったのか、しばらく翔一郎の「そらぁえらい難儀ですなぁ」が二人の間でしばらく流行ったほどであった。



挙式の日。

翔一郎はヘリンボーンの細かい模様のグレーのベスト、ダブルの裾に仕上げられたスラックス、上着は黒のブレザーという姿で、アイボリーのネクタイを締めている。

いっぽう。

エマは淡い藤色のワンピースドレスに、青のハートが目を引く蝶のブローチを胸元に着けていた。

蝶のブローチは、翔一郎にプレゼントされた例のスワロフスキーのペンダントのチェーンが切れてしまったので、ブローチに直したものである。

智恵光院笹屋町を出ると、今出川浄福寺からバスで堀川今出川で御薗橋ゆきに乗り換えて、エマと翔一郎は上賀茂神社を目指した。

上賀茂神社の朱塗りの鳥居前へ着くと、なぜか愛が手を振っている。

「…あれ?」

「エマちゃん久しぶり」

エマと翔一郎は顔を見合わせた。

「元気になったから来た」

「はるばる福島から、よう来たなあ」

翔一郎は懐かしげにいった。

「湯治は?」

「すっかり元気になったよー」

おどけて愛は力こぶを出してみせた。

「そんだけ元気なら大丈夫や」

教え子の息災に、翔一郎は上機嫌である。

「出ないつもりだったんだけど、招待状もらっちゃったし、あさ美ちゃんからは電話来たし…」

それは、義理を欠けるものではない。

「それにしても陣内さん、あたしに告白してフラれたあと、私より可愛い彼女をゲットしちゃうんだもん…ウケるよね」

「…えっ!?」

これは知らなかったらしくエマも翔一郎も、声を裏返して驚いた。

「そうだったんだ…」

「あのとき私には薫がいたしね」

「あ」

翔一郎は思い出した。

「先生、忘れてたでしょ薫のこと」

「…そんなこたあらへん」

去る者は疎しとはいえ図星であったらしい。

「清々しい境内やな」

そっぽを向いてごまかした。

踏み締める玉砂利の足音が、耳に心地好い。

「それで陣内さん、だいぶ前だけど愛のこと訊かれたら、今度話すっていってたのに中々話さなかったんだ…」

そこをエマは変に納得してしまった。

立砂と細殿が見える。

清々しい小川と太鼓橋、朱塗りの楼門、白い玉砂利、なずんだ桧皮葺の社殿…荘厳そのものである。



無事に式は済んだ。

披露宴も片付いた頃、仲間内だけで再び集まることになった。

「飲み直しや」

土佐生まれの一誠らしい発案である。

「めんどうやな」

しかし断る理由がない。

かつては醤油問屋であった町家の居酒屋の座敷で、エマを含めた四人で会食となった。

「相手が先輩では断り切れんからなぁ」

翔一郎はぼやいた。

そこで。

京都に戻っていた愛を連れ立ったのである。

「これなら無茶苦茶はでけへんで」

こういうところは一誠より翔一郎の方が算段は立つらしい。

始まると早速、

「まぁ飲め」

強引に勧めてくる。

翔一郎はそういうのが嫌で日頃は酒席に出ない。

するとあさ美が、

「なんで弱い翔さんばっかり飲ますの」

酔わせて金でも盗むんじゃないの?──と一誠に噛みついて、

「だいたいさぁ、まず飲みたきゃ一人で飲みなさいって」

「えらいの嫁にしたなぁ」

早くも尻に敷かれている様子である。

エマはその情景が滑稽でたまらなかったらしく、珍しく大声で笑いこけていた。

「笑うとこちゃうでエマちゃん」

「だって、もう陣内さん主導権取られてるもんだから面白くって」

身も蓋もないことをいった。

そうやって。

談笑していたのだが、

「…うっ」

愛が口に手をやった。

「ほらもう…愛ちゃんに飲ませたから」

「飲ましてへんで」

さすがに強引な一誠でも、未成年の愛には飲ませてないようである。

「確かに飲んでないみたいだね」

あさ美が確認すると、愛の前には烏龍茶がある。

「…ごめんね、大丈夫だから」

気にしないで、と愛は少し柱にもたれた。

「恐らくアルコールの匂いで酔うたんやろ…先輩が無理くり飲まそうとするから、バチ当たったんや」

天罰や、と翔一郎は鼻で笑って、

「あさ美ちゃん、この際やから先輩に禁酒さしてくれへんやろか」

「そうね」

「そら殺生な…」

「もう一生分飲んでる感じはあるしね」

あさ美がグラスを取り上げた。

「頼む」

拝んで取り返そうとした。

「ちちくりあうのは家でやってや」

笑いながら翔一郎が毒づいて笑わせた。

愛は休んでいたが、

「ごめん、やっぱり帰る」

「ほな送るわ」

連れてきた責任あるからな、と翔一郎はエマと二人で愛に肩を貸すと、

「…じゃ、そういうことで」

あさ美ちゃんあと頼むで──そういうと座敷をあとにしたのであった。