ー分かっているだろ…ー

そう物語る男の目。

分かっているはずだった。

でも、そんな事が身に降りかかるはずが無いと、頭の片隅にあったのも間違いではない。


冷淡にも思える声色で淡々と紡ぐのは、私に冷水を浴びせるかの様な内容。
冷たい視線に射抜かれて、体が動かない。


「あんたは、こんな所に居ていい人じゃない筈だ。」

何を言っている?

「…でも、元の居場所に帰る訳にもいかない…よな。」

私の何を知っているの?
私の元の居場所…それを知っているというのか?

唇を力任せにゴシゴシと擦る。

気持ち悪い。

なんで?

茨木じゃないから。

当然じゃないか。


…でも、ここは阿久の家だよ。
そこに置いてもらうなら、それなりの対価が必要だ。
だから、我慢しなくちゃいけない…。

伊吹を守らなくちゃ。
脳裏に蘇る、紅竹の後ろ姿と色。

白と、赤と、黒。

降りしきる雪と、紅竹の爪が剥がれた指から滴る鮮血、そして小さな黒い土饅頭。

視界がぼやけている。
頬を伝う暖かな雫。

それを拭う大きな手。

いやだ。

触れられたくない。

なんで?

だってあれは、茨木じゃない。

「ここにいれば食うに困る事は無いし、あんたを連れ戻そうとする連中から守ってやる。…勿論伊吹も。」

足元から力が抜けて、崩れ落ちる寸前、辛うじて踏み止まる。

この男は、知っている。

私の過去を。


「だから、俺の物になれ。」

否とは、言えぬ。

けれど、なんで私なの?

…いや、そうじゃない。
誰でも良かったんだろう。
手近に居たのが私だっただけ。

薄く笑った阿久が、もう一度私の頬に手を伸ばし、そっと撫でた。


声を上げたくなる衝動を堪え、顔を上げる。
茨木程ではないにしろ、阿久もかなり大柄だ。威圧感が半端ない。

「何を言っておるのだ。私には…よく分からぬ。」

馬鹿な綾。
この後に及んで、そんな下手な嘘をついて、ばれているに決まってるのに。
でも、少しでも足掻かなきゃ…。
何の抵抗も無しに、流されたくない。

「…伊吹の額…まるで角だな。」

冷えた表情でボソッとこぼした阿久の一言で凍りついた。

そんな…そんな事まで…気付かれたの…。

スヤスヤと眠る伊吹の額には、産まれたばかりにはなかった小さな瘤が二つ出来てきた。
いずれ茨木の様に、二本の角になるのだろう。
でも、今は本当に小さな瘤にしか見えないのに…今この時機でそれを口にするとは、確信があるのだ。

私の事を知っていると、そう言いたいのだ。

握りしめた手から力が抜けた。
もう、逃げれない…。

「対価…と言う訳だな。お前が今言った事を守るのなら、それに見合う物をくれてやらねばならぬ。その要求も当然か…。だが、私は夫有る身だ。そなたの妻にはなれぬぞ。…その代わり、私の体は好きにすればいい。」

「いいだろう。」

一瞬険しい表情を浮かべるも、それはすぐに消えた。
短く言った阿久が再び私に触れた。
腰に回された腕に引き寄せられ、硬い胸板に密着する。
茨木とは違う男の香りに戸惑い、少しだけ再び涙が滲んだ。