少女は明かりの灯る方に全力で駆けていた。途中でつまづいて転んだ。受け身がうまくとれずにひどく擦りむいた。彼女は溢れる涙も血も拭わずにまた走り出した。
 一軒の立派な家にたどり着くと、乱暴にドアをノックした。玄関灯が灯り、中から中年男が出てきた。男は汚らしい少女を見て、とても嫌そうな顔をした。
「お嬢ちゃん、また来たの」
「薬をください! 熱が下がらんの…赤いぶつぶつもどんどん広がってる…お金なら払います、絶対払います」
「だからね…前も言ったと思うけど」
 懇願する彼女に辟易したように、男はため息混じりで言った。
「その流行病は薬が不足しててね、あげられないんだよ。欲しい人は他にもいっぱいいるんだ」
「うそ!」
 少女は叫んだ。
「村の人みんな治った!」
「だからそれは、みんなちゃんとお金を払ってくれてね」
「払うっていってるじゃん!」
 すがりつく少女を邪険に払いのけ、男は顔をおそろしく歪めた。
「まえ熱病の子を診てやったが、結局払わなかったじゃないか! うちも家庭があるんだ、いつまでも慈善活動はできない!」
 怒鳴り声を聞いた近所の人たちが、なんだなんだと集まり始めた。男は恥ずかしそうに顔を伏せ、原因となった少女を恨めしそうに見やった。
「そんな血を流して…村の人に病気が移ったらどうするんだ。帰ってくれ」
 そう吐き捨てて男は扉を閉めようとした。しかし、閉まらなかった。どんなに力を込めても閉まらなかった。
男の言葉を聞いた村人たちがざわめいていた。流行病にかかってるんですって、近づいたらいけんよ、はやくどっかいかないかなぁ…そんな声が聞こえた。ぼくははらわたが煮えくり返る思いにじっと耐えていた。
 男はまだ扉と格闘していた。どうして閉まらない? 目の前には痩せた少女しかいないのに。
 少女は、俯いてドアノブを持っていた。ただ軽く持っているだけだった。しかし男には閉められないようだった。
 少女の髪が、墨を頭にこぼしたように真っ黒に染まっていった。そして、背中に大きな黒い翼が生えた。異変に気付いた男は、ひぃ、と声を上げる。扉がこなごなに吹き飛んだ。
「早いな」
 静観していた姉上が低い声で言った。砂煙が晴れたときには少女の姿は黒ずくめの巨人に変わっていた。
 あたりには悲鳴が響き渡った。村人たちは我先にと逃げていく。巨人は目の前でへたり込む男にむけて太い腕を振りかぶった。吹っ飛ばされる…と思ったが、男の体は奇妙に変形し腕にへばりついていた。
「なに、あれ?!」
 ぼくは悲鳴をあげた。姉上は叫ぶ。
「癒着だ! 魂が揺らいでいるときに別の魂にふれるとくっついてしまうのだ。さらに歪むぞ」
 男が癒着した部分はすぐに黒く染まり、巨大な目玉に変わった。黒い塊は肩まで裂けた口を開き咆哮をあげた。
「姉上えええ! どうするの?!」
 ぼくは泣きそうになりながら叫んだ。巨人の声はびりびりとぼくを震わせた。悲しみ、痛み、絶望、ぼくのなかにあるものと同じ感情がぼくのなかで共鳴した。ぼくはたまらなくなって耳をふさいでしゃがみこんだ。耳をふさいでも声は遮れなかった。
 泣き叫ぶ黒い塊に、姉上はふわりと降り立った。あぶない、と思ってぼくは身構えたが、黒い塊は気付いていないようだった。ただ嘆きの咆哮をあげ続けていた。
 姉上は、塊の肩にちょこんと座ると、頭を撫でた。そして優しい微笑みを湛えながら言った。
「いままでよく頑張ったな。もう休んでいいのだぞ、コークス」
 突如、静寂が訪れた。塊が泣きやんだのだ。
 次の瞬間、巨人は収縮して、元の少女のサイズに戻っていた。倒れ込む彼女を受け止めて、抱きしめる。少女は黒いままだった。大きな一つ目で姉上を見上げると、わっと泣き出した。
今度は少女の声で泣きじゃくった。姉上はずっと少女の頭を撫でていた。少女はひとしきり泣くと、静かになった。村に再び静寂が訪れた。
 黒い少女を抱きかかえて、姉上は戻ってきた。
「終わった。帰るぞ、バニア」
 呆然とするぼくを後目に姉上はふわりと浮き上がる。ぼくはあわてて続いた。
 行きよりゆっくり飛行する彼女に付いて、ぼくは声を上げる。
「帰るって、地界に?」
「ほかにどこがあるというのだ」
 さも当然のように語る姉上に、ぼくは驚いた。
「この子の兄弟はどうするの。お姉さんがいなくなったらみんな…」
 死んじゃう。最後の言葉は詰まって出なかった。姉上は抑揚のない声であっさりと言い放つ。
「それが自然の流れなのだ。我々にはこれ以上干渉できぬのだ。してはならんのだ」
「そんな…」
 涙がぶわっと出てきた。兄弟は愛し合い助け合っていた。なのに幸せにはなれなかった。
「どうして…」
 ぼくは泣いた。眠る少女を思って泣いた。きっと彼女はぼくのように、家族を忘れてしまうだろう。辛い記憶は仕舞ってしまうだろう。そうしないと生きられないから。
「出口が塞がる。急ごう」
 姉上は泣きじゃくるぼくの手をとって言った。ぼくは頷いた。
 姉上の手は相変わらず暖かかった。