食堂は扉を出てすぐ向かいにあった。ぼくの病室とおなじような薄汚れた小部屋に、小さなキッチンとテーブルがある。四つのイスが詰め込まれていて窮屈そうだ。
 テーブルには三人分の食事の用意がされていた。医者はそのうちのひとつの席にぼくを誘導し、伏せていたお茶碗にご飯をよそってくれた。
「ぷてぃー!ごはんだぞー」
 残りのお茶碗にもご飯をよそいながら、彼は声を上げる。しん、と静まった廊下から僅かなきしみが聞こえてきて、ドアがゆっくり開く。

 現れたのは、子供だった。たしか、初めに目が覚めたとき見た子だ。彼だか彼女だか、中性的な雰囲気のその子は、部屋に踏み入ろうとして、ぼくと目が合う。切りそろえられた前髪から覗く大きな瞳を見開いて、その場に固まった。
「おはよう」
 ぼくは照れ笑いを浮かべながら挨拶した。その子はビクッと体を震わせると、脱兎のごとく逃げ出してしまった。
「あ、こら、ぷてぃ!」
 医者の叱咤に応えるように、遠くでバタンと扉を閉める音が聞こえる。
 ずいぶん嫌われてるなあ。ぼくは肩を落として呟いた。
「ぼく、そんなに怖いかな」
「いや、そうじゃないんだ。ぷてぃは、おれの妹なんだが、ちょっと人見知りで…ごめんな、気を悪くしないでくれ」
 長い耳を垂らして詫びる兄の憐れな様子に、ぼくは逆に申し訳なく思った。
「妹さんなんだ」
 弟かと思った、と言うのは失礼かなと思ってぼくは口をつぐむ。
「うん、二人いるうちの小さいほうだ」
「三人兄弟なの?」
「そうだよ」
 ふぅん。
 ぼくと同じだ、と思った。ぼくの兄弟構成はどうだったかな、と思い出そうとしてやめた。そんなことはぼくの頭の中の辞書に書いてあることだ。思い出す意味のないこと。

 ぼくは目線を下に落とす。
 黄茶けたご飯と、おかずが一品。野菜炒めかな。緑暗色の惣菜は食欲をそそらない。いただきます、と一礼してから箸を付ける。
 …味がない。素材の味さえ消えている。食感くらいは楽しめるかと思ったけど、野菜から出た汁により台無しになっていた。
「ずいぶん質素なごはんだね」
 ぼくの口からそんな言葉がこぼれる。
「こんな貧しい食事は生まれて初めてだよ」
 自然に出た言葉ながら、ぼくはなんだか得体のしれない違和感を覚えていた。
「きみはお金持ちの家の子だからなあ」
あははと自虐的に笑う医師に、ぼくはさらにたたみかける。
「黄色いごはんとか初めて見たよ。食べれるのかい、これ」
 ぼくはぶつぶつ不平をいいながらも休むことなく箸を進める。次から次に、溢れるように出てくる言葉のどれも、違和感ばかりの不満だった。
 ぼくは、この食事をまずいとは思っていないようだった。貧しいとも思っていないようだった。ぼくはこの食事が充分なものであると知っている。入院だかなんだか、どういう経緯かは知らないが、急に家庭に転がり込んできて、特に何も役にもたっていないぼくに暖かいご飯を用意してくれたことに感謝している。ぼくはご飯一粒も残さずきれいに平らげ、野菜の汁まですすり飲み箸を置いた。
「ごちそうさま」
 おいしかったよ、と続けようと思ったけど、なんだか変だと思ったのでやめておいた。医者はぼくのお皿を見て嬉しそうに笑ったので、ぼくの言いたかったことは少しは伝わったのだろう。
 医者は食べるペースが遅い人らしく、まだ半分ほどしか減っていない。
 彼が入れてくれたお茶をすする合間に、ぼくは所在なくあたりを見渡していた。
「そうだ」
 医者のつぶやきに、ぼくは視線を前に戻す。
「診療所の中を案内しないとな」
 彼は箸を置き、席を立とうとしていた。
「食べ終わるまで待ってるよ」
 ぼくが暇そうにしていたから気を使ってくれたんだろうと思って、そう断った。でも、彼はゆるく首を横に振る。
「後で食べるからいいよ、行こう」
 でも、と言いかけたが、彼の意図がわかって押黙る。そっか、妹さんと一緒に食べたいんだな。ぼくがいなくなったほうがいいのか、と納得して席を立った。