ぼくはなにをやっていたんだろう。ぼくは布団にくるまって考えていた。
 ぼくは笑っていた。毎日笑っていた。
 今日は学校が休みだったんだ。晴れている日は学校の友達と遊ぶんだけど、今日はあいにくの雨だった。でもべつに雨でもいいんだ、ぼくの家は広くて大きいから、遊ぶとこなんて腐るほどある。そうだ! 玄関ホールの階段の手すり、滑ったら楽しいだろうなってずっと思ってたんだ。新しいメイドがすごく怖くて、なかなか挑戦できなかったんだけど…今はいないぞ。こういうのは、人目を盗んでやるのがスリルあって興奮するんだよねー。
 ぼくは、いつものように、うししーと笑って手すりの上に立ったんだ。おお、なかなかバランスとるのがむずかし…とばたばたしていたら、
「ばにらお嬢様! なにをやってらっしゃるの!」
 ぼくは悲鳴のような声に気を取られた。崩れたバランスを必死で取り戻そうとするのだが、だめだった。
 ぼくの手になにか飛び込んできた。おいると名付けた、黒くて丸っこい生き物。物心ついたころからずっと一緒にいるペットだ。ぼくを支えようとしたのか?
 ぼくはおいるを抱えたまま一階にダイブした。そして、世界が変わっていることに気が付いたんだ。
「大丈夫ですか?! ばにらお嬢様」
 メイドが駆け寄ってくる。大きな音に驚いた兄が部屋から出てくる。
「ばにら、大丈夫?」
 そう心配そうに覗き込む兄の顔は、いつもと変わらないのに…。ぼくは困惑した。
 ばにら、って誰だ?
このお屋敷のお嬢様だ。3人兄弟の末子。勉強嫌いで遊んでばっかりで、メイドやおじいさまをいつも困らせてるどうしようもない子。でもみんなから可愛がられて、友達もたくさんいて、ばにらもみんなが大好きで…。
 ぼくは誰だ?
 ぼくの頭に、いろんな記憶が溢れてきた。家族に嫌われるぼく、おなかがすいているぼく、だれかをいじめているぼく、働いてるぼく、みんな違う名前で呼ばれていた。ぼくは誰だろう、ほんとのぼくはどれだろう。
 みんなぼんやりした記憶だったが、鮮やかに思い出せるものがあった。
 茶色くてふわふわした長い髪の毛。灰色の翼を背負った、女の人。
 ぼくは、ばにらの家族の声を振り切って、ばにらの部屋に閉じこもった。
 そして今、布団をかぶって物思いにふけっている。
「あねうえ…」
 ぼくは呟いた。どんどん記憶は蘇っていった。
 ぼくには姉と、ぼくより大きな妹がいたんだっけ。そして弟のように仲が良かった男の子がいたっけ。そのときのぼくはなんと呼ばれていたっけ。
「ばにらー! なにがあったの? 開けなさいー!」
 外から、声が聞こえた。姉の声だ。思わず返事をしそうになる自分に苦笑する。ばかだなぁ、ぼくはばにらじゃないのに。
 そういえば、姉はすこしぼくの姉上に似てる気がする。強くて頼りがいがあって。でもぼくの姉じゃない、彼女はばにらの姉だ。
 ばにらはぼくが殺してしまった。もういない。幸せいっぱいの家庭で愛情たっぷりに育てられ、世の中を愛して止まない純粋無垢なお嬢様は、もういない。
 ここにいるのは、人を、世界を憎むことしか知らない、薄汚れた悪魔だ。だれも愛してはくれないだろう。ぼくは布団をにぎりしめた。よくなじんだ匂いと感触。でもこれはばにらに与えられたものだ。ぼくのものじゃない。

 ぼくは帰りたい。許されるなら帰りたい。愚かで薄汚いぼくのすべてを理解して受け止めてくれたあの場所に…。
 ぼくはおいるをきゅっと抱きしめた。思えば、この子だけがぼくに与えられたものなんだ。  
ぼくは泣いた。涙が黒い霧になって辺りを漂った。いけない、と思ったが止まらない…。
「あねうえ…」
 ぼくはまた呟いた。今ばにらは十四歳だ。ぼくは指折り数えた。
 あとろくねん…。
 二十年後に迎えにいく、という姉上の声が蘇る。
 姉上は本当に来てくれるだろうか、ぼくはそれまで生きられるだろうか、ノギはどうしているだろうか…。
 どうして、ぼくばかりこんな怖い目に遭うの?
 ぼくはただひざをかかえて泣くしかなかった。

「ばにらー、お医者さまを連れてきたわよー」
外でまた何か聞こえた。どうしてぼくに構うの。ぼくのことなんかなにもわからないくせに…
 ぼくの中でなにかが膨れあがる気がした。懐かしい感覚だった。

 これが、ぼくがすてられるまでのおはなしだ。