(代々木健介)

審判がカウントを数え始めた。


「1っ!2っ!…………」


ぼんやりとする意識の中で、俺はそのカウントを聞いた。なんだか遠く聞こえた。
立たなくては。早く立たないと負けてしまう。
しかし、体に力が入らない。全身の筋肉が、戦うことを拒否している。
ずぐり、と折られた足に重い痛みが走った。
その瞬間、俺の中の弱い心がにじみだしてきた。


もう、いいじゃねえか。
このままじっとしてろ。
負けちまえよ。
負けて楽になれ。


「3っ!4っ!……」


カウントは進む。
浮かんできた弱い思考に、俺は心の中で舌打ちをもらした。
俺は、空手を続けることで、肉体的な強さを手に入れることができた。しかし、弱さという感情を、完全に消すことはできなかった。
今日のような逆境、ギリギリの状況に陥ると、奥に潜んでいた弱さは、俺の心を蝕む。


だいたい立ってどうしようっていうんだ。戦えやしないだろう。足の骨が折れてるんだぞ。


……その通りだった。
もう、俺は勝てやしないのだ。だったら無理に戦うことはない。このまま寝ていればいい。


そうだ。それでいい。


俺の中の、弱い俺が、にやりと笑う。
体から、力が抜けてゆく。


……なんで、俺、空手なんて続けてんだろ?


ふと、思った。


強くなりたいから?殴り合いが強いからなんだってんだ?俺が強いからって、誰が喜んでくれるっていうんだ。


……そういえば、五歳くらいの頃、空手を始めたばかりの頃は、俺が技を覚える度に、母さんが喜んでくれていたな。頭をなでて、ほめてくれた。それが嬉しくて、俺はもっと強くなろうと思ったんだ。そうだ。それが、空手を始めたきっかけ。


でも、母さんは、俺が十歳になった時に、癌で死んでしまった。それ以来、心の中に、大きな穴が開いたようになった。


その後も空手は続けた。強くなった。でも、それを喜んでくれるひとはいなかった。心に開いた穴は埋まらなかった。俺を恐れるヤツが増えてゆくだけだった。


俺は荒れた。


町の不良に片っ端から喧嘩を打ってぼこぼこにしてやった。親父に半殺しにされた。自分の強さがむなしくなった。


「5っ!6っ!……」


カウントが半分まで進む。



俺は、あきらめた。



もう、いい。負けよう。このままじっとしていれば、あと五秒で試合が終わる。
もう、俺は、強くなくてもいい。この試合が終わったら、空手をやめよう。
俺は、目をつぶった。


そのときだ。


「健介君っ!」
叫び声が聞こえた。
「お願いっ!負けないでっ!健介君!」
俺は、目を開けると、声のした方に顔を向けた。
リングサイドで、南斗さんが、目に涙を浮かべながらこちらを見つめていた。