壱.花の値段




「あ」


5つになろうかという幼い子供が小さな桃色の鞠を落とした。

鞠はころころと転がっていき、やがて一人の青年の足元に止まる。

青年は子供に微笑みかけ、落とした鞠を手渡した。


「大切な物なのだろう、もう落とすでないぞ」

「うん、ありがとうお兄ちゃん!」


子供はそのまま走り去っていく。

その姿が見えなくなるまで青年は手を振り続けた。


「若殿様、そろそろお戻りになられてはいかがですか」

「卓馬よ、もう少しだけ庶民の暮らしというのを見せてはくれぬか?」


青年は笠を脱いで卓馬と呼んだ付き人へと振り返る。

目鼻立ちが通った色白の顔は、女性と言わず、男性をも魅力してしまいそうな美しさであった。


青年が微笑みかけると、卓馬はいつもそうしているようにため息をついた。


「なりませぬ。若殿様は殿の後に続くお方、何かあってからでは遅いのです」

「分かっている。だがな、卓馬。その私を守るためについて来たのがそなたではないのか?」

「はぁ…、陽が暮れるまでには戻られますようお願いいたしますよ」


分かればよいと、青年は再び笠をかぶった。


江戸時代、長らく泰平の世が続いていた時代。

橋並家が統括するこの町は、決して裕福ではないがそれなりの暮らしを送っていた。


橋並家は現在、橋並宜永(よしなが)が家を継ぎ、複数の家臣と共に町の治安維持等に当たっている。

そして、その宜永の息子が青年、永久(ながひさ)である。


永久は町の暮らしを見るのを好み、卓馬を連れて度々、このようにして外出していた。

勿論、騒ぎになってはならないため、町人に扮してではあるが。


突然、雨が降ってきた。

それはかなり激しいもので、永久と卓馬は雨宿りを余儀無くされた。


「傘を借りてきますゆえ、暫くお待ちを」


卓馬はそう一言告げると、再び雨の中へと繰り出した。


雨は一向に止む気配がない。

退屈だと永久がため息をこぼしても、状況は何一つ変わらなかった。


静かだ。

雨音だけが耳の奥に木霊し、その音は僅かながら煩わしいものへと変わっていく。


「昼だと言うのに、ここは静かだ」

「あんた、面白いこと言うんだねぇ」


突然の声に、永久は反射的に刀に手をかけた。


「おいおい、そんなに警戒しないでくれよ」

「何者だ」


永久の鋭い目線にひるむことなく、男は笑った。

年は30後半と言ったところか。
身体は永久より一回り大きく、到底力勝負では敵いそうにない。


「俺はこの店の主人の辰兵衛だ」


そういうと辰兵衛は、自分の後ろにある建物を指差した。
看板には鶴屋とだけ書いてある。

見たところ怪しい雰囲気はない。

永久の命を狙っているわけでもなさそうだ。


「そうであったか…疑ってすまぬ、辰兵衛殿」

「いや、構いやしねぇよ。ところであんた、そんなところにいたら濡れちまうだろ?中に入りな」

「うむ…かたじけない」


辰兵衛が暖簾をくぐって店に入ると、まだ20にも満たないような少年たちが出迎えた。

その後に続き永久が入ると、今度はいらっしゃいませと声を揃える。


まさかこんな歓迎を受けようとは思ってもいなかった永久は、目を丸くして驚くばかり。


「辰兵衛殿、これは一体…」

「俺の家族だ。ほらお前ら、兄ちゃんに挨拶しな」


辰兵衛がそういうと、少年達は口々に名乗り始めた。

よく見てみると、幼い子供から立派に戦える少年まで様々である。


最後の一人となった時、その少年は懐から一枚の紙を取り出した。

そこには拙い字で弦之助と書いてあった。


「弦之助…、そなた、弦之助と申すのか」


少年、もとい弦之助は頷き、深々と礼をした。


「弦之助よ、何故そなたは話さぬのだ?」


永久の問いかけに弦之助はびくりと肩を震わせ、近くにいた20後半であろう男の後ろに隠れる。

男は弦之助の頭を撫でると、永久に笑いかけた。


「すまねぇな、こいつ喋れねぇんだ」

「話せぬとは、病か何かか?」


永久の問いかけに店の人間は皆黙り込んだ。

重苦しい雰囲気の中、弦之助が男の長着を引っ張っている。


「…すまぬ、いらぬ事を聞いてしまったようだな」

「気ィ使う必要はねぇよ、なぁ、弦之助?」


男がそう言うと、弦之助は永久の目を見て頷いた。

硝子玉のような美しい瞳が、永久をじっと見つめている。


「よし、お前ら、夜の準備すんぞ!いつもの部屋に集まれよ」


男のかけ声に、弦之助を含む少年達は永久に礼をしてその場を立ち去った。


夜の準備とは一体なんなのか。

永久がいくら庶民の暮らしを見てきたとは言え、所詮は庶民から程遠い屋敷暮らしの身だ。

分からぬ事は多い。


長久は辰兵衛に問うた。


「うちは夜の仕事なんだ、気になるなら今夜来てみるといい」


辰兵衛がそう言った直後、永久を呼ぶ卓馬の声が響く。

そろそろ屋敷に戻らなければ、宜永や家臣に心配をかけてしまうだろう。


「辰兵衛殿、私はそろそろ行かねばならぬ。今夜、また寄らせてもらおう」


永久はそう言い残すと、卓馬と共に屋敷へと立ち去った。

それを最後まで見届けた後、辰兵衛も少年達が向かった部屋へと向かった。