コンピューター関連、精密機械、そういった分野で最近めっきり先進国と言えるようになったインドに、日本車を持ち込もうというANASEの新しいプロジェクト。そんな大それたプロジェクトに自分が関わることになると誰が想像できただろう。ただ言われたことをやっているだけの自分は一体何ができるというのだろう。ただ、そこへ行けというなら行く。そこでやれ、と言われた事をやるだけだ。それでまた、会社がお前はここに要らんと言うのなら日本に戻ってくるだけのことだ。

押入れの奥から箱をいくつも取り出しながら、面倒くさいな、とも飽きもせずにまたそう思う。


かすかに声が聞こえる。怒鳴りたてるような母親の声が聞こえた。穴瀬は大きめのボリュームで掛けていたCDを止めて耳をすませる。階下で母親が大きな声で呼んでいる。

「いーしーおーかーさんがー、いーらーしーてーるーわよーぅ」


石岡・・・・?石岡が・・・?なんで?


穴瀬はドア付近に積み上げた雑誌に躓きながら部屋のドアを開けた。真っ直ぐにあがってくる階段を見下ろすと、玄関に石岡が突っ立っているのが見えた。穴瀬の母親と一緒にこちらを見上げている。

きわめてゆっくりとした足取りで階段を下りた。石岡は少し困ったような顔をして小さく会釈をする。

「ほら、とにかくあがってくださいよ、ね。」

穴瀬の母親がスリッパをもう一度石岡の前に出したが、石岡は穴瀬の顔をうかがうように見上げた。穴瀬が「何しにきたの?」と聞きそうになったとき、石岡が早口で言う。

「あ、の・・・。会社に電話したら休みだって聞いて、きっと、引越しの準備してるんだと思って。もちろん携帯にも掛けたんだけど、出なかったから・・・」

少し言い淀む。

「手伝いに来た。だけど、迷惑だったら帰るよ。ごめんね。」

声が少し小さくなって石岡は俯いた。こういう石岡を久しぶりに見る。

「迷惑なことがあるもんですか。ほら、あがって。」

見かねた母親がもう一度石岡にスリッパをすすめて、穴瀬を睨みつけるように見上げた。

「助かるよ・・・、ありがと・・・。上なんだけど・・・」

石岡はやっと俯いたまま家に上がった。スリッパが床を滑る。


先ほど崩した雑誌の山を積み上げながら穴瀬は携帯電話に気付かなかった事を詫びた。

「大きな音で掛けてたから気付かなかったんだね。最近掛かって来てなかったから、マメにチェックもしてなかったし。ごめん。」

「・・・・。」

「何か話があったんだろ?だから、会社に電話したんでしょ?何?別れ、話?」

「穴瀬さん・・・」

雑誌を積み上げて紐を掛けている手元を見つめていた石岡が責めるような目をして穴瀬を見た。それなのに、穴瀬を呼んだその声はとても切なかった。

「・・・違う。そんなに簡単な事なの?穴瀬さんにとって、俺たちの事ってそんなに簡単な事?」

石岡は膝をつく。穴瀬よりも背の低い華奢な彼がそうやって膝をついて穴瀬を覗き込むとまるで穴瀬を崇めているように見えた。そして多分それは強ち見当違いな訳でもない。あるいは、あるときまでは?

石岡は穴瀬を見つめて言う。

「そうだね、穴瀬さんにとっては、そうなのかもしれないよね。でも・・・穴瀬さんにはそうなのかもしれないけど、俺にとってはそんな簡単な事じゃないよ。分かってるでしょう?」

石岡は膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めた。

「話したかったよ。俺たちのこと、ちゃんと話したかった。あのままなんて・・・できない。穴瀬さんにとって、そんなに簡単な事なら、それでもいいから、そのこと俺に話して?簡単だって、俺と別れるって、言ってよ」

穴瀬には分からなかった。どうしたいのか、なんて考えたこともない。どうなるんだろう、と考えたことはあった気がするのだけど。

「そんなこと、思ってない・・・思ってない、よ」

やっと言えた一言が穴瀬の喉の奥から絞られるように出てきた。それが今の彼に言える最高の愛の言葉だった。