山下公園からノンビリと散歩してあるいた中華街の日が暮れて、軒先の電球が店内の食材や雑貨を浮かせるように照らしている。中華街独特の色使いで赤や黄色や緑のネオンが灯り、ざわついた大きな通りも寂しげな小さな路地も異世界の様相を呈していた。

石岡が大きな口をあけて一口に口に入れようとした小籠包の汁を滴らせている。入りきらない一口をもう一度口に押し込むと、唇の端から油っぽい汁が一筋流れたのをナプキンで丁寧にふき取った。あの油に濡れた唇と同じ唇が自分の首筋に喰らい付くのかと思う穴瀬は背筋をゾクリと何か走ったのを感じた。同じようなことを森川と食事を共にする時にも感じた。自分を愛撫する唇が食べ物を咀嚼するときの色気。森川も石岡もエネルギッシュな食べ方をする。でも、どちらかといえば森川の方が少し上品だし、石岡は少し荒い。でも、その荒っぽさがどこか知れないところを刺激する。

規則的に咀嚼していた口がペースダウンしたかと思うと、ざくりと音を立てて止まり、石岡はまたナプキンで口元を拭った。そしてもう一度咀嚼して飲み込むと、穴瀬を覗き込むように見る。

「どうしたの?」

穴瀬はビールのグラスに手を置いたまま石岡に見とれていた自分に気付いた。

「君を見てただけだよ。おいしそうに食べるなって思って」

「美味しいよ。もちろん、もっと美味しいものを知っているけど。」

そうやって石岡は悪戯っぽく笑った。同じ事を言ったらもっと色っぽく聞こえる人物をよく知っているけれど、石岡が言ってもどこか子どもっぽさがある。オトナぶりやがって、と思う穴瀬は石岡よりもそんなに年上だろうか。ひとつ、ふたつ、と歳を数えてビールを飲んだ。

石岡は酢豚のパイナップルだけを除けて食べて、今度はそのパイナップルを口に運んでいた。

「面白い食べ方をするんだね」

「うん?酢豚?うん。肉とパイナップルを一緒に食べるのは嫌だけど、パイナップルはパイナップルで食べれば嫌じゃないから。」

「ソースがついてても?」

「うん。これは、これでいい。」

穴瀬は自分の酢豚の皿からパイナップルだけをつまんで食べた。甘いパイナップルの汁が口の中に広がった。肉料理に果物を合わせる大胆さは日本料理にはないよな、と黄桃を巻いた生ハムを食べながら言った森川を思い出す。何かというと森川を思い出すのは、穴瀬という記憶の容れ物にまだ石岡が満ちていないからだ。森川と重ねた逢瀬の分を石岡が超えるまであと何回肌を重ねるのだろう。こうして少しずつ塗り替えられている穴瀬の記憶の層は目に見えないけれどそれでも確かに石岡を映している。パイナップルをもう一口食べながら穴瀬は確かにそう思った。

中華街の目抜き通りの二階の窓から見えるのは、雑居ビルのような窓や、赤い枠の料理屋の窓、そして眼下に人の頭が蠢いている。薄暗いような電球の下で豪華すぎる店内の飾りが古めかしい。小分けにした料理を次々に片付けながら、石岡が幸せそうに微笑んだ。穴瀬はどこか現実ではないような不思議な空間にいる二人のことをいつまでも忘れられないような気がした。