水を使った後の気だるさはどこか「こと」を終えた後のベッドの上の気だるさに似ているといつも思う。

ウェイクボードを巧みに乗りこなす森川が何度も失敗しては向かっていく石岡を笑いながら見ている。そして、自分を笑っている森川に、石岡はおそらくあのふくれっ面で抗議しているのだが、波の音とボートのモーターの音に消されて何を言っているのか森川に届いているはずも無い。ただ、その二人の姿はとても微笑ましく映った。穴瀬にはできない人間関係の結び方だと分かっている。

冷えた体をビーチチェアに横たえて、そんな二人をぼんやりと眺めていた。


学生時代の森川の事は知らないし、サラリーマン時代の森川の仕事振りも実際に目にした訳ではないけれど、そして、石岡が働いている所をじっくり見ている訳でもないが、森川の若い頃は、もしかしたら石岡のような感じだったろうか、と思う。

まだ半分学生時代の奔放さを残してはいるが、どんなにくだらない仕事にも前向きに取り組む姿。荒々しく見えることがあるほど熱っぽい。失敗も成功も自分なりに正面から受け取り、悔しがって涙を浮かべたり、喜びに拳を震わせたりする。

似ているようでいて違うと思うのは、石岡の感情の瞭然さは確かに彼の本心から少しの躊躇いもなく表現されているようだけれど、森川の感情は巧みに操作されているようなところがある。たとえば「これが好きだ、これが気に入った、とても嬉しい」という気持ちが、石岡の場合には彼の心の底から迸っているのだけれど(おそらくそうなのだけど)、森川が同じように迸るような喜びを表現したとしても、それすら、それは多分計算されつくした真っ直ぐさなのではないか、と穴瀬は思う。でも、いつか、石岡もそうなるのだろうか?

女達のなかに戯れて、まだ少年のような彼の前髪が熱い汗に濡れて、あの時、お盆の縁をぎゅうっと握り締めたあの手が長い髪をまさぐったり白い背を抱いたりして、そうやって時を重ね、いつかあの男も、自分の気持ちを巧みに表現するという武器を使うようになるのだろうか?

右へ左へ振られながらバランスをとってウェイクボードを乗りこなす森川。何度放り出されても何度でもウェイクボードに向かっていく石岡はボードに乗っている時間が少しずつ長くなっているようだ。

こうして見ていると二人は少しも似ていない。背が高くがっちりとして、何でも器用にこなす森川と華奢といって良いくらい細い石岡は背もあまり高くない。波が来れば何度でも海に落ちる。それでも、石岡のあの喰らい付き方が森川も若い頃はああだったろうか、と思わせる。自分にはない、彼らだけが持つ何か。

(いつからか、どこからか、何かが違ってきている。)

諦めたのだろうか、あれほど飽きもせずに向かっていったウェイクボードをやめて、石岡が海から上がって来る。迷いもせず、彼は、真っ直ぐに穴瀬のいるビーチパラソルへ向かってくるのだった。