11.
不自然なくらいに結婚の話をしない。そんな話、湖山さんとしたくもないから助かるけれど、いつ言い出されるかとちょっとびくびくしたり、へんに沈黙が怖かったりして、いつもなら湖山さんが話しているときに話半分でちょっと見つめたりもできるのに、今日はもう目を見るのも怖い。

かといって女性ばかりの小洒落たレストランの静かなざわめきの中でやたらと大きな声で笑い続けているわけにも行かなくて、何でこんな時にこんなレストランを選ぶのか、湖山さんのことを(果ては菅生さんのことまで)小憎たらしく思う。

湖山さんが使うとずいぶんと長く見える箸を湖山さんは上手に使って可愛らしく盛られた薬膳料理を口にしている。いつも口数が少ない方だけれど、今日はいつもにも増して口数が少ない。薬膳料理を噛み締めて味わっている。湖山さんといるときに話題を選びながら話し続けることに慣れているけれど、こんな風に小さく可愛らしい盛り方の料理の時は特に、話し続けていなければあっと言う間に平らげてしまうだろう。俺は滅多やたらに話題を変えながら話し続けていた。

車だからお酒が呑めなくて良かった。こんな日に呑んだらグラスばかりを手にして悪酔いしたに違いない。そしてこういうときは湖山さんも絶対お酒を飲まない。お酒を呑めない俺に気を使っているからだ。

呑めばいいのに。そしたらこんなに気を使わない。沈黙も怖くない。結婚の事言い出されても怖くない。「湖山さん、酔ってるんでしょ?」ってその一言で何もかも片付けられる。湖山さんを気遣っている振りで、好きなだけ見ていられる。触れることもできる。それだけで満足な訳ないけど、でも、見つめる事すらできないより、触れることすらできないよりはマシ。

「湖山さん、呑んだらいいのに。」

二度目。

「ううん。今日はいいの。折角体にいい料理食べているんだから。」

「そう?でも、メニューにあるってことは、体にいい酒なんじゃないかなあ?」

「百薬の長っていうしね。でも、今日はいいよ。」

「そうですか・・・」

湖山さんの手が、テーブルの端の小さなランプを指先で少し押すようにして壁際に除けるように動かす。細い手首・・・。いまあの手を握ったら、温かいのだろうか、冷たいのだろうか。チラチラと揺れるランプの明かりを見つめる湖山さんの表情は、少し優しげに微笑んでいるようにも、寂しげにゆがんでいるようにも見えた。ランプの明かりが作り出す不思議な陰影。

「ワイン、貰おうかなあ・・・」

独り言のように、湖山さんが言う。ランプを見つめたまま、心の声がそのまま空気を振るわせたみたいだった。

なんだか、後ろめたい気持ちになる。俺が湖山さんに呑ませようとしたのは、全部俺の都合なのに、湖山さんの素直な言葉は何の疑いも無く、多分少しは俺(頼れる後輩として)に甘えたりしてくれているんだろうに。

ボブを小さくポニーテールに結んだ女性に、手を挙げてドリンクリストを頼む。湖山さんはランプからゆっくりと目線を上げて、また、長い箸を掴んだ。小さなポニーテールの女性がよく出来た作り笑いを浮かべて「ドリンクメニューですね」と確認してまたキッチンへ向かう。白いシャツに今日一日分の皺を携えている後ろ姿は凛々しく美しい。湖山さんは静かに箸を動かしている。

ドリンクメニューの上から下に向かって細い指を動かしている。時折指が止まる。多分こういうお店の割りには品揃えが良くリストは長めだ。時折首をかしげる湖山さんの癖が前髪を揺らし、ちらちらするランプがまた不思議な陰影で湖山さんの表情を魔法のように変える。

ワインと言ったのに湖山さんは焼酎を注文する。メニューリストを渡しながら女性に微笑む横顔が本当にとても魅力的だ。きれいな手。やっぱり似ていない。

「ワインって言ってたのに、焼酎?おっさんだなあ」

照れ隠しのようについ冷やかしてしまう。

「おっさんだもーん」

と可愛すぎるおっさんが笑ってまた箸を持つ。そして、歯ごたえのある可愛らしい料理を咀嚼する。俺も同じものをつまんで、同じように咀嚼してみる。よく分からないけれど、体にいいんだな、と思う。

口を大きく動かして咀嚼している湖山さんと目が合うと、なんだかおかしくなって噴出してしまった。男二人がこんな風に洒落たレストランで可愛らしく食べ物を噛み砕いているのはユーモラスだ。

こうやって、いつまでもこの人と一緒にいたい、と心から願う。欲して欲して得られない辛さがどんなに俺を苦しめようとも、この人といる一瞬、一瞬、そしてこの人のこんな笑顔が、そして、笑顔以外の何もかもを、どんな風にでもともにすることができるならこれ以上何を望むことがあろうか、と強く思う。