どれほど経っただろうか。
多分、それほどの時間は経っていない。
ガタガタと震える体を自分の腕で抱きしめながら壁に寄り添い、礼太はひたすら時が過ぎるのを待っていた。
華澄たちが来てくれると思ったのだ。
あれだけの悲鳴をあげたのだから、礼太の身に何かが起きたのだと気づかないはずはない。
しかし妹たちは来なかった。
礼太は再び不安にかられた。
あの時、聖の身に一体何が起きたのだろう。
華澄たちの身にも、危険が迫っているのではないか。
心配で仕方がなかったが、恐怖心が勝った。
あの首がとれる男にむざむざ近づきたくない。
ここから出たくない。
その時、ペタペタと濡れた足音が聴こえた。
プールサイドで聴く音だ。
水で地面に吸いついた足の裏をあげるときの音。
ぺと、ぺと、とどこか滑稽で笑い出したくなるような音が二年三組の教室に響く。
しかし礼太に笑える余裕などあるはずはなかった。
ドアは開いていない。
入ってきた時には誰もいなかったと言うのに、なぜ足音が教室内でするのだ。
礼太は勝手に悲鳴をあげそうになる口を抑えた。
どくんどくん、と動悸が荒くなる。
足音は間違いなく近づいてきていた。
(来ないで……来ないでよ…)
礼太の願いも虚しく、足音は確実に礼太との距離を縮めていた。
ぺと、と最後の音がやむ。
礼太はいつの間にかきつくつむっていた目を恐る恐る開いた。
そこには、青白い顔をした子どもが立っていた。
『またお前に会えるとはな、奥乃』
幼い声に話しかけられ、礼太はハッと顔を上げた。
そして、その日一番の驚きでもって目を見開いた。
そこは、あの恐ろしい夜の学校ではなかった。
目の前には、のどかな田舎の風景が広がっていた。
一面に田んぼが広がり、遠くには集落らしきものが見える。
上に天井はなく、青空だ。
足元には、澄んだ川が流れていた。
しかし、人は一人もいない。
右下に視線を滑らせ、思わず顔を硬直させる。
青白い顔をした子どもが、じっと自分を見つめている。
目が大きく丸い。
ぷっくりとした頬は痛々しいほど愛らしかった。
しかし、この子は人間ではあり得ない。
何がどう違うのか、礼太にも具体的にはわからなかったが、どうしたって人とは相入れない存在だということを感じ取っていた。
あえて言うなら、廉姫と対峙した時の感覚に似ていた。
見た目にはただの子どもなのに、恐ろしく思わずにはいられない。
妖は礼太の複雑な心情を知ってか知らずか、ニッと笑った。
『お前はてっきり死んだのだと思っていたぞ、奥乃。完全に滅ぼされてしまったのだろうと』
何のことを言っているのか分からず、礼太は戸惑った。
奥乃、とは自分のことを呼んでいるのだろうか。
しかし、礼太は廉姫以外の妖を知らない。
『いいところだろう。かつての儂の棲家だ』
妖は、礼太からみれば小さすぎて壊れ物のように見えるその手を、礼太の掌の中にそっと滑りこませた。
ひんやりと冷たく、湿っていた。
『儂はここで大昔から暮らしておった。人間どもが住み始めてからは、田に水を引かせてやり、洗濯をさせてやり、子供が儂の中で溺れたら助けてやった。』
子どもの目は、目の前の川の静かに注がれていた。
そして、ぽたぽたと綺麗な大粒の涙を数粒落とした。
その時、礼太にはにわかには信じられないことが起きた。
まるで礼太自身の意思を無視するかのように、礼太の空いている方の手が妖のぼさぼさの頭の上に伸び、そっとかきなぜたのだ。
『………人間どもは時が経つとあろうことか恩も忘れて儂を埋めたておった。儂は棲家を追われ、怒りくるい、嵐のごとく人間どもに災厄の限りをもたらしてやった。………あの忌まわしき「慈薇鬼」どもに封ぜられるまでな』
礼太の手を握る力が強くなる。
『お前もその様子だと災難にあっていたようだが、儂も散々な目にあったわい。しばらく前に、何かの大きな波動がきて封印から出られたはいいが、数日前、慈薇鬼の餓鬼に見つかって、危うく消されるところだった。深手を負って、このままでは存在することすら危ういのだ。だから………なぁ、奥乃』
赤くなった瞳を潤ませ、子どもが親にねだるように、妖は言った。
『その人間、喰っていいか?』
そこに、礼太以外の人間はいなかった。
妖が腕に噛み付こうとした時、礼太の体が、また礼太の意思を無視して動いた。
驚きのあまりしぼんでいた恐怖が蘇ってきたというのに、その時の礼太の体は、冷淡なほど冷静に動いた。
容赦無く子どもを振り払い、よろめいたすきを狙って、手刀を突き出した。
礼太の手が、つい今しがた子どもの頭を優しくなでていた手が、子どもの心臓をえぐっていた。
ぬるりとした感触に礼太は悲鳴をあげるのに、礼太の体は止まらなかった。
……まるで、得体のしれない何かが、礼太をのっとっているようだった。
否、確かに礼太の中には、『ナニカ』がいた。
(助けてっ、助けて………父さん)
頭に浮かんだのは父の顔だった。
いつだって頼もしい、礼太たちの父親。
(父さん父さん…母さん…華女さん)
浮かんでは消える大人たちの顔。
礼太はこの時、自分がどれほど家の大人たちに大切に守られ、安穏と日々を送っていたのか思い知った。
妖退治を生業とする家に生まれながら、怖い思いなどほとんどしたことがなかった。
裕司は正しい。
それはひとえに守られていたからだ。
大人たちが、礼太を優しくくるんで、現実を見せようとしなかったからだ。
(…ごめんなさい、華澄……聖……)
これまで二人がどんな思いで幼い頃から家業に従事していたのか。
羨むだけで、考えたこともなかった。
『兄さんはいいなぁ』
いつだったか、華澄がふとした拍子に漏らした言葉を思い出した。
いいなぁ、兄さんは。ずっとあったかなところにいられるんだもん。
今さらながらに理解した。
戦うことを運命づけられた妹と弟の悲しみと、恐怖。
妖退治とは、妖殺しなのだ。
……奥乃家の家業は、殺しなのだ。
多分、それほどの時間は経っていない。
ガタガタと震える体を自分の腕で抱きしめながら壁に寄り添い、礼太はひたすら時が過ぎるのを待っていた。
華澄たちが来てくれると思ったのだ。
あれだけの悲鳴をあげたのだから、礼太の身に何かが起きたのだと気づかないはずはない。
しかし妹たちは来なかった。
礼太は再び不安にかられた。
あの時、聖の身に一体何が起きたのだろう。
華澄たちの身にも、危険が迫っているのではないか。
心配で仕方がなかったが、恐怖心が勝った。
あの首がとれる男にむざむざ近づきたくない。
ここから出たくない。
その時、ペタペタと濡れた足音が聴こえた。
プールサイドで聴く音だ。
水で地面に吸いついた足の裏をあげるときの音。
ぺと、ぺと、とどこか滑稽で笑い出したくなるような音が二年三組の教室に響く。
しかし礼太に笑える余裕などあるはずはなかった。
ドアは開いていない。
入ってきた時には誰もいなかったと言うのに、なぜ足音が教室内でするのだ。
礼太は勝手に悲鳴をあげそうになる口を抑えた。
どくんどくん、と動悸が荒くなる。
足音は間違いなく近づいてきていた。
(来ないで……来ないでよ…)
礼太の願いも虚しく、足音は確実に礼太との距離を縮めていた。
ぺと、と最後の音がやむ。
礼太はいつの間にかきつくつむっていた目を恐る恐る開いた。
そこには、青白い顔をした子どもが立っていた。
『またお前に会えるとはな、奥乃』
幼い声に話しかけられ、礼太はハッと顔を上げた。
そして、その日一番の驚きでもって目を見開いた。
そこは、あの恐ろしい夜の学校ではなかった。
目の前には、のどかな田舎の風景が広がっていた。
一面に田んぼが広がり、遠くには集落らしきものが見える。
上に天井はなく、青空だ。
足元には、澄んだ川が流れていた。
しかし、人は一人もいない。
右下に視線を滑らせ、思わず顔を硬直させる。
青白い顔をした子どもが、じっと自分を見つめている。
目が大きく丸い。
ぷっくりとした頬は痛々しいほど愛らしかった。
しかし、この子は人間ではあり得ない。
何がどう違うのか、礼太にも具体的にはわからなかったが、どうしたって人とは相入れない存在だということを感じ取っていた。
あえて言うなら、廉姫と対峙した時の感覚に似ていた。
見た目にはただの子どもなのに、恐ろしく思わずにはいられない。
妖は礼太の複雑な心情を知ってか知らずか、ニッと笑った。
『お前はてっきり死んだのだと思っていたぞ、奥乃。完全に滅ぼされてしまったのだろうと』
何のことを言っているのか分からず、礼太は戸惑った。
奥乃、とは自分のことを呼んでいるのだろうか。
しかし、礼太は廉姫以外の妖を知らない。
『いいところだろう。かつての儂の棲家だ』
妖は、礼太からみれば小さすぎて壊れ物のように見えるその手を、礼太の掌の中にそっと滑りこませた。
ひんやりと冷たく、湿っていた。
『儂はここで大昔から暮らしておった。人間どもが住み始めてからは、田に水を引かせてやり、洗濯をさせてやり、子供が儂の中で溺れたら助けてやった。』
子どもの目は、目の前の川の静かに注がれていた。
そして、ぽたぽたと綺麗な大粒の涙を数粒落とした。
その時、礼太にはにわかには信じられないことが起きた。
まるで礼太自身の意思を無視するかのように、礼太の空いている方の手が妖のぼさぼさの頭の上に伸び、そっとかきなぜたのだ。
『………人間どもは時が経つとあろうことか恩も忘れて儂を埋めたておった。儂は棲家を追われ、怒りくるい、嵐のごとく人間どもに災厄の限りをもたらしてやった。………あの忌まわしき「慈薇鬼」どもに封ぜられるまでな』
礼太の手を握る力が強くなる。
『お前もその様子だと災難にあっていたようだが、儂も散々な目にあったわい。しばらく前に、何かの大きな波動がきて封印から出られたはいいが、数日前、慈薇鬼の餓鬼に見つかって、危うく消されるところだった。深手を負って、このままでは存在することすら危ういのだ。だから………なぁ、奥乃』
赤くなった瞳を潤ませ、子どもが親にねだるように、妖は言った。
『その人間、喰っていいか?』
そこに、礼太以外の人間はいなかった。
妖が腕に噛み付こうとした時、礼太の体が、また礼太の意思を無視して動いた。
驚きのあまりしぼんでいた恐怖が蘇ってきたというのに、その時の礼太の体は、冷淡なほど冷静に動いた。
容赦無く子どもを振り払い、よろめいたすきを狙って、手刀を突き出した。
礼太の手が、つい今しがた子どもの頭を優しくなでていた手が、子どもの心臓をえぐっていた。
ぬるりとした感触に礼太は悲鳴をあげるのに、礼太の体は止まらなかった。
……まるで、得体のしれない何かが、礼太をのっとっているようだった。
否、確かに礼太の中には、『ナニカ』がいた。
(助けてっ、助けて………父さん)
頭に浮かんだのは父の顔だった。
いつだって頼もしい、礼太たちの父親。
(父さん父さん…母さん…華女さん)
浮かんでは消える大人たちの顔。
礼太はこの時、自分がどれほど家の大人たちに大切に守られ、安穏と日々を送っていたのか思い知った。
妖退治を生業とする家に生まれながら、怖い思いなどほとんどしたことがなかった。
裕司は正しい。
それはひとえに守られていたからだ。
大人たちが、礼太を優しくくるんで、現実を見せようとしなかったからだ。
(…ごめんなさい、華澄……聖……)
これまで二人がどんな思いで幼い頃から家業に従事していたのか。
羨むだけで、考えたこともなかった。
『兄さんはいいなぁ』
いつだったか、華澄がふとした拍子に漏らした言葉を思い出した。
いいなぁ、兄さんは。ずっとあったかなところにいられるんだもん。
今さらながらに理解した。
戦うことを運命づけられた妹と弟の悲しみと、恐怖。
妖退治とは、妖殺しなのだ。
……奥乃家の家業は、殺しなのだ。


