喰われる。


和田は本能的に感じた。


この不気味な笑みから逃れなければならないのに、残忍な光を放つ瞳に囚われて顔を動かすことすら出来ない。


「…奥乃」


和田は祈るように話しかけた。


「おくの、れいた」


お願いだ、正気に戻ってくれ。


礼太……いや、『得体の知れない何か』の顔が近づいてくる。


噛みつかれる。そう思った時だった。


礼太の顔が後ろに大きくのけぞった。


唖然として見れば、乙間が礼太の首を引っ張ったのだと分かった。


大きな音を立てて礼太の体が倒れる。


すぐに立ち上がろうとする体を、またも乙間がかなり乱暴な仕草でひっくり返した。


和田は容赦の無い所業に驚いた。


次の瞬間、乙間の体が壁めがけて吹っ飛んだ。


礼太の中の『何か』がひらりと、蚊を鬱陶しがるような仕草をしただけで。


それによって、場が一気に恐慌状態になった。


礼太の様子がどこかおかしいことには気づいていても、何かとんでもないことが礼太の身に起きているとまでは認識できなかった大勢が、それに気づいて恐怖したのだ。


半数ほどが武道場の扉に殺到するが開かなくなっているらしく、情けない悲鳴をあげる。


『何か』は暫くしげしげと完全に気絶した乙間を眺めていたが、やがて興味を失ったようにふいっと顔を背け、またもや和田の目を捉えてニタァと笑った。


「開けよ‼なんで開かないんだよ、ちくしょう……」
「駄目!上の窓も開かない」
「奥乃、どうしちまったんだよ」
「帰りたい……お母さんお母さん……」


仲間の声が遠くから聞こえる。


和田はひっそりと目を閉じた。


日に焼けた頬を涙が一筋伝った。


わけの分からない恐怖と、友人に対する不安とかすかな怒りと。


二年生になってから、心配のかけられどおし。


部活サボり始めて、辞めるとか言い始めて、次はこれかよ。


なんだよ、この状況。


誰か説明してくれよ。


俺を、助けてよ。


奥乃を、正気に戻してくれ。


建物が大きく振動した。


突然、何事もなかったかのようにあっさりと扉が開いた。


そして、外から息を切らした女の人が入ってくる。


青白い肌を月の光に照らされ、唇の色鮮やか。


肩口でばっさりと切られた黒髪は艶やかで、赤い着物に身を包み、切れ長に縁どられた茶色の瞳は、和田の知っている誰かによく似ていた。


その儚げな雰囲気とは裏腹に、その人は妙な存在感を放っていた。


裸足の足でゆっくりと畳を踏みしめ、淀みのない足取りで、和田と礼太の方へと向かってくる。


礼太の中の『何か』が煩わしげに足音の方を向いた。


女は礼太を見下ろした。


その相貌には表情の欠片もありはしなかったが、茶色の瞳には確かに、自身を見上げている少年に対する慈愛が見えた。


『何か』が、先ほど乙間を吹き飛ばした時のように手を払おうとした。


しかしそれよりも素早く、女が礼太の手を掴む。


両者は暫し、見つめあった。


それは、目に見えぬ攻防だった。


やがて女がしゃがみこみ、礼太の唇に、紅い唇を重ねた。


その途端、電池が切れたようにガクリと、礼太の体が傾く。


女はそれを優しく抱きとめて、礼太の髪を慈しむように撫でた。