花色の月


逃げるようにして帰ってから、那月さんの所には行っていない。


『ひなこ』の正体を、知りたいのに知りたくなくて……ごはんが美味しくない。



考えないようにと、ただひたすら仕事に打ち込んだ。

皮肉なもので、がむしゃらに仕事をすればそれなりに成果は上がる。

やっと若女将らしくなってきたわねと、おばあ様に言われたのに、欠片も嬉しくない。

だって、それを報告したい人の所に……行けないんだもん。



ふとテーブルの上を見ると、一輪の小さめの向日葵と手紙が目に止まった。

何度も読み返して、結局返事を書けなかった那月さんからの手紙。



『愛しい花乃へ

さて、楓は無事に手紙を
運べたでしょうか?

今日は寝過ごしてしまってすみません。
花乃と一緒に寝ると
つい眠りが深くなるらしいんです。

今の仕事が落ち着いたら
今度は卵焼きの練習をしましょう。

那月』



何てことない手紙にも、返事を書けなかった。


お気に入りの万年筆も、今度ばかりは一文字も綴ってくれない。


壁の時計の針が、まもなく休憩時間の終わりを示していた。

髪が乱れていないか確認して簪をさし直す。



……あたしが付けてはいけないのかも知れないけど、那月さんに貰った簪を外す事は出来なかった。

懐に入れている練り香水の入れ物を握りしめても、胸の中のざわめきは落ち着かない。