「いえ……そのぉ……昨日みたいな事になったら飛び込もうかと」
「えっ……それだけの為に…?」
「あっ、はい。
もし若女将に何かあったら、側に居るのに何やってんだって、如月さんにどやされちまいますからね」
おどけて言う光さんは、あたしが気を使わないようにと最大限何でもない事のように言ってくれる。
でも、本当は色々と大変だった筈。
人手の足らない板場を抜けて出てきてくれるって事は、武さんの協力も仰がなければいけないし、一番したっぱだから板場の他の人にも断らなければいけなかった筈だ。
申し訳ないと思うけれど、それを言ったら怒られそうな気がする…
「…ありがとうございます」
「いやいや、結局何の役にも立っちゃいないですしね?自己満足なんで気にしないで下さい」
そう言うと、やっぱり急いで板場に戻って行った。
廊下を走らないように急ぐ光さんの背中を眺めながら、那月さんはいい後輩を持ったんだなと笑みがこぼれた。
まぁ、本人は忘れてましたけど。
急いで次の仕事に移りながらも、動くたびにほのかに香るくちなしの香りに、どれだけ元気付けられた事だろう。
大きな仕事が入ったと言っていたのに、あたしの為に練り香水を作ってくれたり、素敵な入れ物を作ってくれたり、那月さんはあたしに甘いなぁなんて、少しは自惚れてもいいかな?
懐に入れた練り香水の入れ物を、そっと着物の上から押さえてみた。
指先に触れるその丸みが、どうも頬の筋肉を緩めてしまうみたいだ。
那月さん、あたしあの人には負けたくない。
「ちょっとあなた。こっちに来てくれる」
