朝の満員電車。
 世の中にこれ以上気分の悪いものはないのではないだろうか?とよく思ってしまう。
 私たち二人はいつものように入り口に入ってすぐのスペースで押し潰される感じでぎゅうぎゅう詰めにされていた。
 何故かこの状態で一度も痴漢やスリに会わないことが相変わらず不思議なものである。
「今日はちょと狭いね」
 ひーの耳元で私は小声でそう話しかける。
「確かに。いつもより多いかもぉ」
 ひーは私の言葉にそう返して、一瞬だけ腕を動かして元に戻す。
 私の後ろの男は、お腹を壊しているのかお腹を押さえながら、青ざめた顔をしている。
 本当に満員電車とは嫌なものだ。
「香里~、香里~。降り口は左側です。御降りの方はお忘れ物のないようにご注意ください」
 やっと目的の駅へと電車が到着する。
 私たちは、電車から駅のホームへと吐き出され、そのまま改札口まで流されていく。そして定期券をそれぞれに通し、駅員さんの「おはようございます、いってらっしゃい」という営業スマイル全開の挨拶を聞いて、そのまま駅を後にした。
 清々しい朝日の中、学校へと続く気だるくなる坂道を登っていく私たち。
 いや、実際気だるいのは私だけで、ひーはぴょんぴょん跳ねたり私に飛びついてコツかれたりしている。その元気が一体何処から沸いてくるのか、一度教えてもらいたいものだ。
「ねぇ、りん~。明日から本当に東京行っちゃうの?」
 不意にひーが少し寂しげな顔をして捏ねた様な声で言う。
 まったく。私は一度もゴールデンウィークの旅行の話をしていないというのに、何処で聞いてきたのか。多分、お母さんが話したのだろう。
「ん。まぁね。」
 寂しそうなひーの言葉に、出来るだけ素っ気無く返す。そうじゃないといつものように『一緒に来る?』とつい聞いてしまいそうだ。
「うぅ。りんが、わたしのりんが、見知らぬ街に一人きり。心配だよぉ~」
 うん、知ってた。知ってました。ひーが超跳んだ思考の持ち主なのはよぉく知ってました。口にはしていなくてもどんなことで心配しているかはよくわかる。幼馴染というものはつくづく便利で、つくづく不便なものだ。でも、恥ずかしいけど、やっぱり心配してくれるのはちょっと嬉しい。
 だけど私は「あはは。いつから私の一人旅になったのかなぁ」と苦笑することにした。
 だって『心配してくれてありがとう。』なんて言ったら、恥ずかしすぎて死んでしまう。
「あれ?違うの?」
 もはや初耳というような顔のひー。相変わらず、救いようのない子だ。
 そんなひーの体が少し沈むと同時に「おっはよー!ひーちゃーん!」という甲高い声が耳に団子の串でも刺したように『キンキン』と響く。
 ひーの背中に目を向ければ、飛び跳ね放題の茶染めの髪をした途轍もなく無駄に活発そうな女がひーに抱きついている。
「あ。おはよ、かすちゃん。」
 奥山 霞夜。
 あだ名はカス。自称ひー命と自ら言いふらすのが趣味なただの変人。
「とりあえず、学校の近くだから、さっさと離れなさい。」
 私は、勤めて冷静にカスに離れるように言う。
「なんだ。居たのか燐酸塩。お前帰っていいよ。いらないし。」
「誰が燐酸塩だ!誰が!?ていうかカスが帰れ!」
 カスの言葉で、怒りメーターが一気に吹っ切った私は、ところ構わず大声を上げてしまう。
 その瞬間「うわぉい!?」と奇声を上げてカスがひーから引っ剥がされる。
「おはようございます、りんさん、ひーさん。姉がご迷惑をおかけしてすいません。」
 とカスをひーから引き離した少女が礼儀正しく挨拶してくれる。
 奥山 咲夜。
 このカスの双子の妹である。容姿こそ似ているが、性格は全く似もせずしっかり者。ハッキリ言って、私は未だにこの二人が双子だということを信じられない。
「おはよ、さくちゃん。」
「さくちゃんありがとう。あとおはよ~。」
 それぞれに挨拶をすませ、そのまま4人で気だるい坂道を登っていく。
「さくちゃんもさっきの電車乗ってたの?」
 私がそう聞くと、さくちゃんはうんざりした顔を隠しながら口を開く。
「ええ。姉がもう少し早く起きれば、あんなラッシュの電車乗らなくていいんですけどねぇ。」
「なによなによ。アタシの所為?」とその言葉にカスが喰らいついてくるが、さくちゃんは「うん。カス姉の所為。」とストレートで答える。
 はぶられ気味なひーが「でも、今日はちょと多かったよねぇ?」と話題に参加してくる。
「そうですね。さっきカス姉が」
 それに答えようとしたさくちゃんの口をカスが全力で塞ぎ、耳打ちでひそひそと話し始める。
 まったく。朝っぱらからなにをやってるんだか。
心の中でそう呆れながら二人を待っていると、私の肩が再び重くなる。
「ひーさん。なにをやってるのかなぁ?」
 背中の重量源に声をかける。
「えぇ~?おんぶしてもらってるぅ~」
 という暢気な声が返ってきてそれに文句を言おうと口を開こうとするが「おやおや、おはよう。相変わらずリアルレズビアンだねぇ~。」という言葉が耳に入り、そちらに目を向ける。
 するとそこには、見るからに軽そうな男が突っ立っている。
 坂本―なんだっただろう?覚えていない。
 よく私とひーをレズビアン呼ばわりし、無駄に湧くうえ付き纏ってくる”見るからに軽そうな”男だ。
「あ。まさひこ君おはよぉ~」
 と私の背中でひーが挨拶をする。
ああ。そういえばそんな名前だったか。
「誰がレズだ!誰が!?」
 背中に乗っているひーを引き剥がしながら、そう答える。もちろん、ひーが嫌がっているのは言うまでもない。
「いや。それは」と坂本が言おうとするが「違う!ひーちゃんはアタシのものだ!断じてこの蛾の鱗粉のものじゃあない!」と熱弁し始めるカス。そして、さくちゃんから腕をキメられて「ギブ!ギブだってぇ!」と声を上げているのは決定事項だ。
はぁ~。本当に帰りたくなってきた。
 そんなことを思いながら、ひーとさくちゃんと馬鹿二匹を連れて、無駄に大きい門をくぐり、学校へと到着した。
校内に入り、教室の前まで行くと、カスとさくちゃんとはしばしのお別れだ。カスはどうでもいいけど。
「じゃあ、ひーちゃん。またあとでね~」
「それでは失礼いたします」
 そんな二人の別れの言葉に私とひーはそれぞれに「またね」と告げて、自分の教室へと入ろうとする。
「おいおい、二人とも俺を置いてくなよぉ~」
「あれ?まさひこ君まだ居たの?わたし、りんと二人きっりのほうが嬉しいんだけど?」
 ひーは、何気に坂本のことが嫌いらしい。
「というか、着いて来ないで」
 もちろん私も嫌いである。
「まったく。連れない事言うなよ?同じクラスなんだから構わないだろ?ホラホラ両手に花ってやつ~?」
 そう顔をニヤニヤさせながら気色の悪いことを言う坂本を無視して、ひーは私の腕を引いて教室へと入る。
 坂本は「あ。ちょっと待てよ~」などと引きとめようとして声を上げていたが、ひーは完全に無視を決め込んでいて、聞く耳持たずという感じだ。まぁ私も用がないため、ひーに習うことにした。
 教室に入ると、もう既にかなりの生徒が居て、それぞれに駄弁っている。
 ホームルームまであと十分というところか?私はひーの手を解いて、自分の席に腰掛けて後ろ側を向いてやる。
「はぁ。まさひこ君って日に日にしつこくなってくねぇ?」
『うんざり』と言いたげに坂本への不評を漏らすひー。
 私はそれに「ああいうのは、気にしないほうがいいような気もする」と返して、朝食であったサンドイッチをカバンから出して一口かじる。
「あ、いいなぁ。お腹すいちゃったよぉ~」
「ちょっと食べる?」
 そう言って私は答えを聞かずに、サンドイッチを半分にしてひーに渡す。
「りん大好き~」と、これ以上ないくらいに嬉しそうに受け取るひー。
相変わらずの発言の為あまり気にならないが、こういうのを他の人が聞くと、坂本と同じ意見に辿り着くのだろうか?
 などと考えながらもう一口かじると、それを見てひーがクスリと笑う。
 そんな風に朝の時間は過ぎていった。

 そのあとの授業は、ゴールデンウィーク前日ということもあってか、先生もなかなかに適当であった。
 実際、連休明けに同じ内容をもう一度やるのだから、あまり変わらないのだけれども、やはり授業はしっかりやるべきだと思った。
 お昼休みにはカスが押しかけてきて、それについてきたさくちゃんと四人でご飯を食べて、また授業。
 5限目が終わり、軽く伸びをすると「ふぁ~」という可愛らしい欠伸が後ろから聞こえて、顔を向けてみる。
 するとそこには、眠気眼を擦っているひーがいた。
「あ。りん。おはよぉ~。」
 眠そうな猫の声で私にそう挨拶するひー。いつから寝ていたのだろう?と思い「はい、おはよう。いつから寝てたの?」とひーに訪ねてみる。
「えとぉ。先生がきてぇ~。教科書開いてぇ!って言った辺りからぁ?」
 聞いた私が馬鹿だった。ほとんど最初からだ。
「あはは、そっかぁ。」
 私は苦笑しながらそう返し、ノートや教科書をカバンへと入れてていく。
 それを見たひーが「あ。もう今日の授業終わりだねぇ」と言いながら、私に習って帰り支度を始める。
 本当に仕方ない子だ。私が居なかったら、この子は一体どうなってしまうのだろうか?
 考えるだけでもおぞましい。とりあえずノートはゴールデンウィーク明けにでも写させてあげよう。嫌がるだろうけど。
 そう考えを巡らせていると、やはり重くなる肩。
「んぅ?何?」と聞くと「はやく帰ろうよぉ~?」とひーは答える。
 さてはて。この子は一体何を言ってるのだろう。
「まだ帰りのホームルーム終わってないよ?」と苦笑いで言ってあげると「あ。」と完全に忘れていましたと言わんばかりの拍子抜けな声が返って来た。
 本当に私が居ないと駄目な子だ。
 今日何度目かの類似した内容で頭を悩ませながらも、私はそれを心の中で笑ってすませた。
 それから五分程度で先生がやってきて、明日からのゴールデンウィークの過し方について話し始めた。
 もちろん、まるで小学生に注意するような内容ばかりだ。
 例えば、ゲームセンターなどには大人の人と一緒にとか、川などの危ない場所には近づかないようにだとか、本当に必要かどうかすらも疑わしいものばかりだった。