(――でも何故あんな人があんなに美味しいコーヒーを入れられるのだろう?)

陽子は初詣の日に出会った翼の父親に不快感を覚えた。

孝は息子の恋人にまで言い寄る人だったのだ。


自分の入れたコーヒーを口に運びながら、何時か行った孝の経営する珈琲専門店の味を思い浮かべていた。

混じりっ気なしのブルーマウンテンと、孝のオリジナルブレンド。
どちらをとっても右に出る物はいない。

苦味の中に甘味がある。
渋みは抑えられていて、口の中に広がるマイルドな味わい。

そんなアロマ引き立つコーヒーだったのだ。




 翼も、陽子の気持ちのこもったコーヒーを口に運ぶ。

少し苦い。
その苦さが、あの事件を思い出させる。


その時翼は薫の言葉を思い出した。


『これでやっと解ったわ。私の時も同じことをしたのね!』
あの時確かに薫はそう言った。


「そうだったのか。僕があの家の子供だったんだ」

翼は急に泣き出した。

何も知らない陽子はただオロオロするばかりだった。


何故翔が来たのか?

その答えは自分を追い込むためだと気付いた翼。


(――まだ仕掛けられた罠に嵌まる訳にはいかない!)

再び翼は甦った。


子供の頃からずっと迫害を受けて来た翼。

もし自分の考えたことが真実だとしたら、翔が浮気相手の子供のはずだ。

香の子供のはずだ。


翼は翔に対する憎しみに心を奪われていた。


陽子は翼を案じていた。
心の奥底に得体の知れない魔物を住まわせたことを感じとっていたのだった。




 陽子は一計を案じ二人で翼の秘密基地に向かった。


誰もいない小さな通路で思いっきり翼を抱き締める。
陽子に出来ることはその位だった。

目の前を三峰口行きの電車が通る。


「翼。中川に行かない? 清雲寺の枝垂れ桜見に行こうよ。実家から意外と近いのよ」

遠くなる電車を眺めながら陽子が言った。